妖怪を鎮めた功績で創建された南禅寺

京都市左京区に建つ南禅寺は、鎌倉時代に創建された臨済宗のお寺です。

鎌倉時代は、臨済宗や曹洞宗といった禅宗が宋から日本に伝えられ、その後、武家に深く信仰されるようになりました。

また、天皇から篤く崇敬されることもあり、南禅寺もまた亀山天皇が臨済宗に深く帰依したことから創建されています。

風光明媚な地に建てられた離宮の跡

南禅寺には、地下鉄の蹴上駅から北東に約5分歩くと到着します。

東山三十六峰の一つに数えられる南禅寺山のふもとが南禅寺の境内ですね。

今も山肌を背に見る伽藍が自然に溶け込んだような景観を保っており、これが鎌倉時代中期に亀山天皇が風光明媚と賞した風景なんだなと感慨深くなります。

その亀山天皇が、文永元年(1264年)に離宮禅林寺殿を営んだのが南禅寺の始まりへと続きます。

当地は、かつて園城寺(おんじょうじ)の別院最勝光院が建っていましたが、後に荒廃し、亀山天皇が離宮としたんですね。

亀山天皇は、毎日、禅林寺殿で自然豊かな景色を楽しんでいたことでしょう。

しかし、ある時から、禅林寺殿が恐怖の舞台に変わります。

妖怪が出るようになったのです。

その妖怪は、どうやら最勝光院に住んでいた者の死霊のようで、亀山天皇は西大寺の叡尊(えいそん)を招いて祈祷を行わせます。

でも、効き目なし。

次に招かれたのは、東福寺の無関普門(むかんふもん)。

なんと彼は、禅林寺殿に出没する妖怪を退散させることに成功したのです。

さすが、後に大明国師と呼ばれるだけのことはあります。

無関普門が妖怪を退治したのは正応元年(1288年)。

感激した亀山天皇は、すでに上皇となっていましたが、翌正応2年に無関普門に帰依して出家し法皇となります。

そして、正応4年には禅林寺殿を禅寺に改め、無関普門を開山に迎えました。

これが南禅寺の始まりです。

南禅寺境内の南に建つ水路閣をくぐって石段を上がったところに南禅院というお寺があります。

水路閣

水路閣

この南禅院こそが、亀山天皇の離宮禅林寺殿の跡地です。

南禅寺は、今も拝観することができますよ。

南禅院

南禅院

建物は、当初は禅林寺殿のものでしたが、明徳4年(1393年)に火災で焼失しています。

その後、北山殿の寝殿を賜りましたが、応仁の乱(1467年)で再び失われてしまいます。

現在の建物は、元禄16年(1703年)に徳川慶喜の生母桂昌院が寄進したものです。

桂昌院は、玉の輿で有名なお玉さんですね。

完成まで15年かかる

南禅寺の伽藍の整備が本格化したのは、正応5年からです。

永仁元年(1293年)には、仏殿が落成し、最後の法堂(はっとう)の完成までに15年もかかったそうです。

伽藍整備に尽力したのは、南禅寺二世の南院国師と呼ばれる規庵祖円(きあんそえん)で、南禅寺では創建開山として仰いでいます。

当寺の建物は、3度火災に遭っているため、創建当初から現存しているものは残っていません。

法堂にいたっては明治時代にも焼失しており、現在の建物は明治42年(1909年)に再建されたものです。

南禅寺の法堂

南禅寺の法堂

一方、南禅院には、亀山天皇作庭とも夢窓疎石作庭とも伝えられている池泉回遊式庭園が残っており、天龍寺の庭園、苔寺の庭園とともに京都の三名勝史跡庭園とされています。

中央に心字池(しんじのいけ)が配され、その後ろには傾斜があり、視界には自然の景色しか入ってこない造りになっています。

心字池

心字池

亀山天皇が愛したのは、この風景だったんでしょうね。

南禅院は、今も離宮の面影を残しています。

もしも、最勝光院に住む者の死霊が出なかったら、そして、無関普門がそれを退散させなかったら、南禅寺の創建はなく、片隅に「亀山天皇離宮禅林寺殿之跡」とでも刻まれた石碑が立つだけだったかもしれません。

なお、南禅寺と南禅院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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