京都市下京区の五条通から富小路通を南へ向かうと、道路の左右に世継地蔵で知られる上徳寺や源融ゆかりの本覚寺などたくさんのお寺が建ち並んでいます。
それらのお寺の中に浄土宗の極楽寺というお寺があるのにたまたま歩いていると気づきました。
門前に京都市の説明書があったことから、立ち寄ることに。
弘法大師の真作と伝わる地蔵菩薩
極楽寺には、京阪電車の清水五条駅から南西に約6分歩くと到着します。
極楽寺がある富小路通沿いには、古い建物が多く、懐かしさを感じられる景観が残っています。
山門の前には、「浄土宗極楽寺」と刻まれた立派な石柱が立っています。
山門が開いていたので、境内に入ることに。
境内は、全体的にすっきりとしていて、駐車場のような感じです。
説明書によると、極楽寺は、天照山(てんしょうざん)と号し、弥陀三尊像を本尊とし、寺宝として『洛陽京極五條極楽寺泰産地蔵縁起』絵巻が伝わっているとのこと。
その絵巻には、正親町院(おおぎまちいん)の永禄の頃(1560-1570年)に一蓮社(いちれんじゃ)上人が、四条坊門東洞院に創建したのが当寺の始まりと記されているそうです。
四条坊門東洞院は、現在の極楽寺よりも1km以上北東になり、今もその地は一蓮社町と呼ばれています。
極楽寺が現在地に移ってきたのは、天正年間(1573-1592年)ということですから、創建から間もない時期に引っ越しが行われたんですね。
さて、先ほどの絵巻の名に入っている泰産地蔵(たいさんじぞう)ですが、これは、弘法大師空海の真作とされているそうです。
極楽寺第2世の廓蓮社(かくれんじゃ)上人が、堺市内の井鼻の路傍に安置されていたお地蔵さまが、京の人々を救済し、安産の手助けをしたいと願ったことから、ともに上洛し当寺に安置することになったのだとか。
泰産地蔵と呼ばれるようになったのは、源頼朝の乳母であった比企尼(ひきのあま)の娘の丹後局(たんごのつぼね)が、その霊験により島津氏の祖とされる嶋津忠久を産んだことに由来します。
また、このお地蔵さまは、矢負地蔵(やおいじぞう)とも呼ばれています。
和田和泉守正武(わだいずみのかみまさたけ)と嶋津薩摩守忠国の争いにおいて、和田の放つ矢をすべて台座に受け、嶋津を守ったという伝承が、その名の由来だそうです。
他にも、五條京極の辻に立つ迷子を法師に姿を変え自宅まで送り届けたことから手引地蔵とも呼ばれているのだとか。
たくさんの人助けをしてくれるお地蔵さまのようですね。
何気なく通りかかった極楽寺ですが、なかなか興味深いお寺であることがわかりました。
境内を少し覘いただけなので、建物がどうなっているのかわかりませんでしたが、機会があれば、またお参りに行きたいですね。