元治元年(1864年)7月に長州藩兵が京都に乱入してくる蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。
蛤御門の変は、1ヶ月前に起こった池田屋事件で多くの長州系の志士が犠牲になったことに対する報復です。
長州藩は3方向から京都に向かい、これに対して会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍は、京都御所を守ります。
京都に入ってきた長州軍のうち、来島又兵衛が率いる藩兵は、京都市右京区の天龍寺に陣取りました。
弘源寺の本堂で試し切り
長州軍の中で、来島又兵衛が率いる藩兵が最も血気盛んでした。
彼らの中には、天龍寺の塔頭(たっちゅう)寺院である弘源寺にも宿営し、本堂の柱に向かって刀の試し斬りをしました。
この時の長州藩兵が行った試し斬りの跡は、今も弘源寺本堂の柱にしっかりと残っています。
試し斬りされた柱は1本だけでなく、数ヶ所に見られます。
特別公開の時に弘源寺に参拝しその刀傷を見てきました。
それは、上から下に袈裟がけに斬って付いたもののようで、包丁で切ったようなきれいなものではありませんでした。
えぐれるように柱がへこんでいましたね。
室内は写真撮影禁止だったので、ただ見るだけにしておきました。
刀傷を触ることもできますが、あまり多くの人が触ると劣化してしまうでしょうから、見るだけにしておいた方が良いでしょうね。
本堂の前には、虎嘯(こしょう)の庭と呼ばれる枯山水庭園があります。
嵐山を借景とした美しい庭園で、眺めていると心が落ち着いてきます。
しかし、血気盛んだった長州藩兵には、この庭が視界に入らなかったのかもしれません。
虎嘯の庭は、「龍吟雲起、虎嘯風生」という言葉から名付けられました。
「龍吟じて雲起こり、虎嘯(うそぶ)きて風生ず」と読みます。
これは、龍が吟ずれば雲が起こり、虎が吠えれば風が吹き起こるような凄まじさを表す禅の言葉です。
刀を振り回す長州藩兵の形相は凄まじいものだったでしょうが、それは禅の悟りの境涯を表す「龍吟雲起、虎嘯風生」とは違ったものだったに違いありません。
最終的に蛤御門の変は、長州軍の敗北で幕を閉じます。
しかし、この時の戦いで京都市街は多くの家屋が焼失し、天龍寺も長州藩兵が陣を布いたことを理由に薩摩藩兵に燃やされてしまいました。
なお、弘源寺は、初夏と秋に特別公開が行われます。
虎嘯の庭や本堂の刀傷の他にも、障壁画や毘沙門堂の天井絵なども鑑賞できます。
観光客が少ない初夏に訪れると、落ち着いて庭園を見ることができるでしょうね。