平安京造営から現代まで京都にあり続ける東寺の謎を読む

京都駅のシンボルと言えば京都タワーですが、京都市全体のシンボル的存在と言えるのは東寺の五重塔かもしれませんね。

京都に旅行で訪れた時には、一度は立ち寄りたい観光名所であり、多くの人が京都という言葉からすぐに連想するのが東寺の五重塔ではないでしょうか。

さて、観光で東寺を拝観する場合、何も知らずに訪れるのも楽しいですが、やはり事前に東寺の豆知識を仕入れてから参拝した方が、様々な興味がわいてきますし、見るべきものを見逃さずに済みます。

ガイドブックに目を通すのも良いですが、東寺のことを一通り知るなら、三浦俊良さんの「東寺の謎」がおすすめです。

東寺は京都のタイムカプセル

東寺の謎は文庫なので手ごろな値段で読めます。

それでいて、350ページ以上あるので、まずまず読みごたえがありますね。

同書の中で、「東寺はタイムカプセルである」という記述があります。

なかなかよくできた表現だなと感じます。

東寺は、平安京の遺構として唯一残っている史籍です。

そのため、平安京の実測地図を作成するにあたっては、東寺の南大門の中心線を基準線として朱雀大路や羅城門を割りだし、平安京の地図がつくられています。

なので、もしも東寺が日本の歴史の中で滅亡していたなら、平安京の明確な位置を知るのは難しかったでしょう。

京都市のあちこちに残っている平安京関連の石碑も、東寺が平安京の造営から現在まで存続しているからこそ、その場所を割り出して置けたものがあるはずです。

また、東寺が昔も今も変わらず、現在の場所にあり続けていることは、私たちが歴史上の人々と時間を超えて交わる接点にもなっています。

東寺の境内に入れば、創建に関わった空海が歩いたのと同じ場所を私たちも歩くことができますし、その他の歴史上の有名人とも時間を超えて同じ場所に立つことができます。

南北朝時代に足利尊氏が本陣を置いたのも東寺の境内だった。後醍醐天皇をはじめ、楠木正成、新田義貞も東寺を訪れた。
織田信長も豊臣秀吉も本陣をおいている。江戸時代には国学者の本居宣長も訪れている。
さらにいえば、現在の東寺とほぼおなじ姿を、都に住んでいた、あるいは都を訪れた歴史上の人物のほとんどが見ていただろうということである。そこには西行法師も平清盛や源頼朝も、徳川家康、徳川慶喜、近藤勇や坂本竜馬の姿もあっただろう。また江戸、京都、大阪を往来する多くの商人や旅人の姿もあっただろう。

焼失しても再建され続けた五重塔

東寺を語るうえで忘れてはならないのが五重塔です。

背の高い建物なので目立つということもありますが、この五重塔こそ平安京の造営から現代まで京都の歴史を見、そして、何度も犠牲になってきた生き証人なのです。

東寺の五重塔

東寺の五重塔

五重塔の完成は元慶7年(883年)頃と言われています。

創建時に計画されてから実に87年もの歳月をかけて建てられたんですね。

しかし、できたばかりの五重塔は間もなく落雷で損傷し、修復には43年もかかりました。

天喜3年(1055年)にも落雷を受け、今度は全焼してしまいます。

2代目の五重塔が完成したのは応徳3年(1086年)でした。

ところが、2代目の五重塔も完成から184年後の文永7年(1270年)に原因不明の出火で消失しています。

3代目が再建されたのは永仁元年(1293年)です。

落慶供養はそれから41年後のことで、後醍醐天皇の他に足利尊氏や新田義貞も出席しています。

3代目五重塔は270年の長期間存続しつづけましたが、永禄6年(1563年)に雷火にかかって焼失します。

再建には豊臣秀吉が関わり、文禄2年(1593年)に4代目の五重塔が完成しました。

ところが完成からわずか42年後に落雷による火災で焼失。

4代目は最も短命な五重塔でした。

5代目の五重塔は、寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建されます。

この五重塔が現在の東寺に残っている五重塔で、歴代で最も長く存続しつづけています。

東寺の五重塔は、時の権力者の援助により何度も再建されてきました。

それだけ、東寺が多くの人々に愛され続けてきたということなのでしょうね。

こういったことを知って東寺に参拝すると、どこか親しみを感じてきませんか。



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