粟生光明寺の圓光大師御石棺

浄土宗の開祖法然上人は、建暦2年(1212年)に亡くなり、東山大谷に埋葬されました。

東山には、法然上人が浄土宗の教えを広めた吉水草庵がありましたから、東山大谷に埋葬されるのは自然の流れと言えます。

しかし、現在、法然上人の石棺は東山大谷にはなく、遠く離れた長岡京市に建つ光明寺(こうみょうじ)にあります。

墓あばきを防ぐために光明寺に移す

光明寺には、JRの長岡京駅または阪急電車の長岡天神駅から阪急バスで「旭が丘ホーム前」まで行き、そこから西に約10分歩くと到着します。

総門をくぐり、女人坂を上ってまっすぐ進むと御影堂(みえどう)が建っています。

御影堂

御影堂

御影堂の北に阿弥陀堂が建ち、その正面に圓光大師御石棺があり、これが法然上人の石棺です。

圓光大師御石棺

圓光大師御石棺

圓光大師は、東山天皇から法然上人に贈られた諡号(しごう)です。

法然上人が亡くなった後も、浄土宗の教えは広まり続け、それに危機を感じた比叡山の僧都が、安貞2年(1228年)に墓あばきをして東山大谷の法然上人の墳墓を破却しようと企てます。

これを察知した法然上人の弟子たちは、上人の遺骸を嵯峨の二尊院を経て、太秦の来迎寺に移します。

そして、粟生(あお)にある光明寺で荼毘に付しました。

光明寺は粟生にあることから粟生光明寺とも呼ばれ、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取った熊谷直実が法然上人に弟子入りした後、建久9年(1198年)に念仏三昧堂を建立したことに始まります。

石棺から一条の光が射し、粟生の地を示したことから弟子たちは当地に石棺を移し、それが光明寺の名の由来となったと伝えられています。

石棺の蓋と身の年代が異なる

以前に紹介した書籍『京都 知られざる歴史探検』の下巻に法然上人の石棺について興味深い記述がありました。

石棺の蓋と身は大きさが微妙に異なり、違う部材が使われているというのです。

蓋は、古墳時代のもので、法然上人の時代より600年も前に造られており、それを根拠に光明寺の丘陵そのものが巨大前方後円墳ではないかとの説が唱えられたのですが、現在は否定されています。

それでも、蓋が古墳時代の品であることは確実とされています。

一方、身ですが、こちらは江戸時代に京都の高槻藩邸に出土不明の石棺の身があり、これが法然上人の石棺だと伝えられていました。

光明寺は、自派の寺院の仲介により高槻藩と交渉を繰り返し、石棺の身を譲り受けることができたそうです。

こうして、石棺の蓋と身が合わさり、光明寺境内に圓光大師御石棺として安置されることになりました。

光明寺は、秋の紅葉が美しいお寺で、境内全体でカエデが真っ赤に色づき、多くの参拝者が訪れます。

でも、法然上人の石棺をじっくり見る人はあまりいませんね。

ぜひ、紅葉だけでなく法然上人の石棺もご覧になってください。

ちなみに光明寺は、普段は無料で参拝できますが、紅葉の時期になると拝観料が必要です。

なお、光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。