慶応3年(1867年)3月。
新撰組の参謀であった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が仲間とともに御陵衛士(ごりょうえじ)を結成しました。
これは、事実上の新撰組脱退だったのですが、伊東は局長の近藤勇(こんどういさみ)に自分たちは脱退ではなく分離しただけだと主張します。
そして、薩長と親密に交わり、その機密を入手して新撰組の活動に役立てると言って、自分たちの脱退をうまく正当化しました。
ただ、伊東は、自分に味方する者すべてを脱退させたわけではなく、スパイとして、佐野七五三助(さのしめのすけ)、茨木司(いばらきつかさ)、中村五郎、富永十郎など10名の同志を新撰組に残しておきました。
直参にとりたてられた新撰組
佐野たち伊東の間者たちは、新撰組の内情を御陵衛士に伝えるとともに、時には隊を混乱させるため、近藤勇に対して反抗の態度を見せることもありました。
彼らは、いずれは御陵衛士と合流するつもりでいたので、局長である近藤に反抗することを恐れていません。
佐野たちの反抗が特に目立ったのは、新撰組が、これまでの働きを評価されて、幕府から直参としてとりたてられることが決まった時でした。
佐野たちは、自分たちは浪士であり、旧主のもとを去って新撰組に加入したのに旗本となるのは、二君に仕えることになり、旧主に申し訳が立たないと言いだし、京都守護職の屋敷に出かけていきました。
京都守護職は、新撰組を管轄する会津藩が担当していました。
佐野たちは藩の公用方の小野権之丞(おのごんのじょう)と諏訪常吉(すわつねよし)に会い、新撰組を脱退したい旨を伝えます。
新撰組の内輪揉めを自分たちが裁くことはできないと判断した小野と佐野は、こっそりと新撰組に佐野たちのことを報告し、また、佐野たちをいったん帰らせ、後日、守護職屋敷を訪ねてくるように言いました。
局を脱するを許さず
会津藩から知らせを受けた近藤勇は、佐野たちを粛正することにします。
新撰組では、脱走者を許さないのが規則。そして、それを破った者は死をもって償うことになっていました。
再び守護職屋敷を訪れた佐野たち10人は、諏訪が留守だったため、屋敷の中で佐野が帰ってくるのを待つことにします。
佐野、茨木、中村、富永の4名が同じ部屋、それ以外の6名は離れの部屋に通されました。
昼になっても諏訪は帰ってこなかったので、彼らは昼食をいただきます。
夜になっても、まだ諏訪は帰ってきません。
会津藩では、彼らに晩飯と酒をご馳走し、諏訪の帰りを待ってもらうことにします。
深夜0時になっても諏訪は帰って来ず、待ちくたびれた佐野たちは眠たくなってきました。
と、その時、背後の障子から無数の槍が4人の背中を突き刺しました。
新撰組による粛清です。
不意をつかれた4人は即死したかに見えましたが、佐野七五三助だけは、死んだふりをして倒れていました。
そこに隊士の大石鍬次郎が入ってき、倒れている佐野の頭を蹴りました。
蹴られた佐野は、すっくと立ち上がり、脇差を抜いて大石に斬りつけます。
大石は顎から膝下まで斬られましたが、命に別状はありませんでした。
斬りつけた佐野は、そのまま絶命して倒れました。
二張の 弓引かまじと もののふの ただ一筋に 思ひきる太刀
佐野七五三助の懐中には、上の辞世の歌が入っていました。
なお、離れに通された6人は、いずれも大したものではなかったことから、即刻放逐されています。
京都守護職の邸があった場所は、現在、京都府庁となっています。
入口の門をくぐった右側には、京都守護職屋敷がこの地にあったことを示す石碑が立っています。
京都守護職の敷地は現在の京都府庁のすべてを占めており、正門や敷石、玄関などは大変豪華だったそうです。
京都府庁では、毎年春に観桜際が行われ、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)に因んで名づけられた容保桜が花を咲かせた姿を見ることができます。
観桜際の時には、京都守護職屋敷跡の石碑もぜひご覧になってください。