京都市左京区の岡崎に建つ平安神宮。
ここは、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して創建されました。
他の神社と比べると、建物や境内の造りが変わっていますが、これは、平安京の朝堂院を8分の5の大きさに復元したものだからです。
現在でこそ、平安神宮は、朱色の大鳥居が有名ですが、実は創建当時には存在していませんでした。
神社の入口と言えば鳥居なわけですが、昭和4年(1928年)に大鳥居が建設されるまでは、応天門が平安神宮の入口でした。今でも応天門の先が境内になっているので、こちらが事実上の入口ではあるのですが。
弘法にも筆の誤りの語源
下の写真に写っているのが、応天門です。
平安京の応天門は、延暦14年(795年)に建てられました。
二層式の楼門で、碧瓦葺(みどりがわらぶき)の屋根を持っていたそうで、平安神宮の応天門も、その様式を再現しています。
応天門の上層の屋根の下には、「應天門」と書かれた扁額(へんがく)がかかっています。
実は、この扁額は、書の達人と伝わる弘法大師空海と関係があります。
空海は、平安時代のお坊さんで、当時の応天門の扁額を書いたことで知られています。
扁額の字を書き終わり、応天門に掛けられた後、空海は、「應天門」の「應」の字が間違っていることに気づきました。
どの部分が間違っていたのかというと、文字の1番上の点の部分です。空海は、この点を書き忘れていたんですね。
間違いに気づいた空海は、下から筆を投げて、見事に点を付け加えたと伝えられています。
どんな達人でも間違うことがあるということわざに「弘法にも筆の誤り」がありますが、これは、空海が応天門にかかる扁額を書き間違えたことからきているのです。
現在、応天門にかかっている扁額は空海が書いたものではありません。
以前に紹介した書籍の「タイムトラベル もうひとつの京都」によると、平安神宮の応天門の扁額を書いたのは、福岡県大宰府の宮小路康文氏だそうです。
宮小路氏は、空海の書法を極めた名筆家で、扁額を書く前に高野山で1週間、沐浴潔斎をしてから京都に入ったということです。
「應天門」の3文字にかける意気込みが伝わってくる逸話ですね。
平安神宮に参拝する方は、応天門を眺めることはあっても、扁額までじっくりと見ることはないですね。
平安神宮に訪れた時は、まずは応天門の扁額をご覧になってください。
なお、平安神宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。
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