明治維新の総仕上げをした大村益次郎
嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。 この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。 彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。 その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。
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嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。 この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。 彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。 その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。
京都市上京区にある京都御苑は、幕末の史跡が多いことで知られています。 京都御苑だけでなく、京都市内には、たくさんの幕末の史跡が存在しているのですが、時代を動かした大きな事件が起こったところと言えば、京都御苑が一番ではないでしょうか。 猿ヶ辻の変、八月十八日の政変、蛤御門の変、小御所会議。 これらは、全て京都御苑で起こった幕末の重大事件でした。
京都の街を歩いていると今まで何もなかった場所にいつのまにか石碑が置かれているということがよくあります。 伏見区の京阪墨染駅から西に10分ほど緩やかな坂を下ったあたりにも、平成21年(2009年)12月に建立されたばかりの石碑があります。 その石碑には、「この付近 近藤勇 遭難の地」と刻まれています。
慶応3年(1867年)11月15日。 この日、京都市中京区の近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺されました。 暗殺したのは京都見廻組の今井信郎というのが通説となっていますが、当時は、2人を暗殺したのは新撰組と思われていました。
前回の記事では、室町幕府の史跡が質素だということを紹介しました。 その理由は、長い間、足利尊氏が後醍醐天皇に刃向かった逆賊という評価を受けていたことによるのではないかと言われています。 足利尊氏は14世紀の人物であるのに、彼への偏見は戦時中まで続きます。 特に幕末には、天皇を敬う尊王思想が流行したことから、尊氏に対する批判は強いものがあり、その偏見は、足利将軍木造梟首(きょうしゅ)事件へと発展しました。
慶応2年(1866年)1月21日。 この日、現在の京都市上京区で明治維新の実現を加速させる重要な契約が締結されました。 その契約は、後に薩長同盟とか薩長連合と言われるようになります。
最近、八月十八日の政変に関係した記事ばかりですが、今まで書いた個別の記事だけでは、事件の全体がわかりにくいと思います。 そこで今回は、時間を追うような感じで事件の内容をまとめてみました。
幕末の京都。 天誅と称したテロ行為が都人を恐怖に陥れていました。 その多くが、尊王(天皇を敬うこと)や攘夷(じょうい=外国人を追い出すこと)を主張し、反対派を襲撃するというもの。 このようなテロ行為の中で、大事件でありながら、歴史上はあまり知られていない事件が文久3年(1863年)8月17日に起こります。 その事件の名は、後に本圀寺事件と呼ばれるようになります。
江戸幕府が、慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いで新政府軍に負けたことで、約700年続いた武家政治が終わりました。 武家政治の確立と終焉の地・鳥羽 倒幕の機運は、坂本竜馬が薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長連合(1866年)以降、急速に高まることになりますが、その3年前の文久3年(1863年)8月にも討幕を企てた事件が起こっています。
幕末、吉村寅太郎という人物がいました。 天保8年(1837年)に土佐藩の庄屋の子として生まれた彼は、武市半平太の教えを受け、やがて、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤王党に加わります。 その後、文久2年に脱藩して、尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を日本から追い出すこと)のために働く目的で上洛しました。