幕末一覧

第2の新撰組屯所・西本願寺

新撰組が京都に登場したのは、文久3年(1863年)です。 その翌年には、新撰組を有名にした池田屋事件や蛤御門の変が起こっています。 当時の新撰組は、壬生の八木邸を屯所としていましたが、やがて隊士が増えてくると手狭になったため、もっと広い場所に屯所を移転する必要が出てきました。 そこで、慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所に移転することになります。 その第2の屯所が、現在、世界遺産に登録されている西本願寺だったのです。

寺田屋事件殉難者が眠るお寺・大黒寺

幕末の事件によく登場する宿のひとつに京都市伏見区の寺田屋があります。 例えば、慶応2年(1866年)には、坂本竜馬が宿泊中に伏見奉行所に捕えられそうになるといった事件が起こったりしています。 坂本竜馬危機一髪・寺田屋 この時の事件は、寺田屋で起こった事件の中でも歴史的に有名なのですが、その4年前の文久2年(1862年)4月23日には、薩摩藩の内部抗争が寺田屋であり、9名の犠牲者を出した寺田屋事件も起こっています。

新撰組と壬生塚

京都に観光や旅行でお越しになる方の中には、新撰組所縁の地を訪ずれることを目的とされている方も多いのではないでしょうか。 そういった方にとって欠かすことができない新撰組所縁の地は、壬生の八木邸と壬生寺内にある壬生塚でしょう。

新撰組結成の地・八木邸

幕末の京都の治安維持にあたった組織として有名なのが新撰組。 新撰組が結成されたのは、文久3年(1863年)3月ですが、その舞台となったのが中京区の壬生に建つ八木邸です。

三条大橋の擬宝珠の刀傷は池田屋事件の時のもの

鴨川に架かる橋には、五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも比較的有名で、人通りが多い橋が三条大橋です。 この三条大橋は、東海道の西の端ということで、歴史の舞台にも登場することが多いのですが、幕末の池田屋事件では、2か所の擬宝珠(ぎぼし)に刀傷がついたとされています。

京阪電車で楽しむ坂本竜馬のスタンプラリー

2010年7月21日追記:12月23日まで第2弾のスタンプラリーを開催しています。景品などの情報は下記ページをご覧ください。 坂本竜馬スタンプラリー第2弾も景品ゲットぜよ 2010年1月8日から5月9日まで京阪電車では、「おけいはん、龍馬とゆく!スタンプラリー」を開催しています。 今年の大河ドラマが龍馬伝ということもあって、京都ではこういったイベントがいろんなところで開催されていますね。 私も京阪電車のスタンプラリーに参加して景品をいただくことができました。

伊東甲子太郎ともうひとつの新撰組・御陵衛士屯所跡

幕末の京都の治安を守った新撰組を代表する事件と言えば、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件ですね。 この時、長州藩の浪士たちを斬って、京都放火計画を未然に防いだわけですが、その後に長州藩が報復とばかりに藩兵を率いて上洛し、京都で市街戦が繰り広げられました。これが蛤御門の変です。 この2つの事件の後、新撰組は新たに隊士を増やすために江戸から有望な人材をスカウトしてきました。 その中の一人が伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。

武力討幕を謀った小御所会議

先日、京都御所の特別公開に行った時に、御所内の中央よりやや南に建つ小御所を観てきました。 小御所は、主に皇太子の元服式や立太子礼に使用されたり、幕府の使者や大名の拝謁に使用された建物です。 小御所の前には、大きな池のある御池庭が造られており、小御所の中から眺められるようになっています。きっと、昔の人は小御所から風情ある御池庭を観て楽しんでいたのでしょう。 そんな風流なことをイメージしながら、特別公開の時は小御所を拝観していたのですが、歴史的には小御所は時代を動かす重要な会議が行われたことで有名です。

蛤御門の名前の由来

京都御苑の西側に蛤御門(はまぐりごもん)という門があります。 正式には、新在家御門といいます。 しかし、江戸時代のある時期から蛤御門と呼ばれるようになりました。

江戸幕府の始まりと終わりの舞台・二条城

京都市中京区は、ビジネス街として有名な街です。そのため、中京区は、ビジネスマンやキャリアウーマンの方が多いといった特徴があります。 また、中京区の西の方に行くと二条城があり、中京区は、観光や旅行でお越しになった方々でも賑わっています。 二条城は、平成6年(1994年)に世界遺産に登録され、まさに中京区のシンボルと言えるのですが、歴史的に見ると二条城は江戸幕府の始まりと終わりの象徴と言えます。