京都の歴史一覧

わずか数十騎で楠木正成討伐に向かった宇都宮公綱

元弘2年(1332年)3月に鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が隠岐に流されました。 4月には、幕府が擁立した光厳天皇が即位したことで、一件落着と思えたのですが、ちょうどこの頃から後醍醐天皇に味方する楠木正成が動き出します。 楠木正成は半年前に赤坂城で戦死したと噂されていました。 ところが、彼は生きており、幕府の湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)が管理していた赤坂城を奪回したのです。 これに驚いた六波羅探題の北条仲時は、5月17日に楠木正成討伐のために隅田通治(すだまさはる)と高橋宗康に5,000の兵を持たせ、大阪の天王寺へと向かわせました。

明治天皇が崇徳天皇の御霊を京都に戻したのはなぜ?

長寛2年(1164年)8月26日に保元の乱に敗れ、讃岐に島流しとなった崇徳上皇が亡くなりました。 その崇徳上皇の御霊が再び京都に戻ってきて京都市上京区の白峯神宮に祀られたのは、それから約700年も経った慶応4年(1868年)のことでした。 なぜ、こんなに時が過ぎてから崇徳上皇の御霊が京都に戻ってきたのでしょうか。

後醍醐天皇が隠岐遠島の途中で休息した鳥羽離宮

元弘元年(1331年)9月に鎌倉幕府打倒のために笠置山にたてこもった後醍醐天皇でしたが、9月末に落城して捕えられた後、10月に六波羅に移されて監禁されました。 そして、三種の神器も後醍醐天皇から対立する持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)へと授けられ、天皇は、鎌倉幕府の処分の決定を待つ身となります。 また、後醍醐天皇の笠置籠城と時を同じくして、河内の赤坂城で幕府軍と戦っていた楠木正成も持ちこたえることができずに落城し、戦死したという噂が広まります。 これにより後醍醐天皇の討幕計画は、正中の変に続き、再び失敗となりました。

笠置山落城後に後醍醐天皇が移送された平等院

元弘元年(1331年)8月24日に京都を脱出し南都に向かった後醍醐天皇の一行は、8月26日には奈良に入っていました。 天皇は、東大寺や興福寺に討幕のために起ち上がるようにと、僧の聖尋(しょうじん)を遣わしましたが、ともに断られたため、奈良を立ち去り、京都府南部の笠置山にたてこもって、幕府軍と戦うことにしました。

護良親王の挙兵に対して幕府軍が布陣した一乗寺下り松

元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。 翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。 しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。 その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵し...

後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...

元弘の変で日野俊基が捕えられた京都御所

正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。 最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。 これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。

討幕の挙兵予定日は北野天満宮の祭礼の日・正中の変

蒙古襲来があった鎌倉時代中期以降、幕府の信用が悪化していきます。 幕府のために蒙古軍と戦った御家人たちに、恩賞として分け与える土地がなかったことがその理由です。 御家人たちの不満は、他にもありました。それは、幕府の政務を担当していた北条家の権力が強大化していったことです。 窮乏する御家人たちと違い、北条家だけ栄える状況に人々の不満が募るのは当然のこと。 さらに元亨元年(1321年)には、京都で台風、水害、地震といった天変地異が相次ぎ、庶民たちの暮らしも苦しくなっていきます。 加えて、元亨2年に東北で蝦夷が反乱を起こし、鎌倉幕府への不満が加速していきました。 ...

京都各地に散らばる血天井

慶長5年(1600年)は、関ヶ原の戦いが起こった年として有名ですね。 その関ヶ原の戦いが起こる前に京都の伏見城で、東軍と西軍の戦いが起こっています。 この年の6月18日に徳川家康は、上杉討伐のために東に出陣するわけですが、伏見城で家臣の鳥居元忠に別れを告げます。 鳥居元忠は、家康の留守中に西軍が伏見城を攻めてくることをわかった上で、城を枕に討ち死にする覚悟。 そして、7月19日に宇喜多秀家や吉川広家らが率いる西軍4万が伏見城にたてこもる2千名弱の鳥居勢に襲いかかります。 激しい攻防の末、8月1日に伏見城は落城、鳥居元忠と残兵380名余りは、自害して果てました。 ...