京都市南区の五重塔で有名な東寺から大宮通を少し南に歩いたところに大通寺というお寺が建っています。
観光寺院ではないので、境内に入る人はおらず、自動車の通りが多い大宮通にあっても、ひっそりとした雰囲気を持っています。
そんなことから素通りされてしまう大通寺ですが、歴史的には、源実朝の御台所であった坊門信子(ぼうもんのぶこ)ゆかりのお寺として興味深い一面を持っています。
実朝暗殺後すぐに帰京
源実朝は、建仁3年(1203年)9月に12歳で鎌倉幕府の3代将軍となっています。
坊門信子が実朝の御台所となったのは、その1年後の元久元年(1204年)12月のことでした。
御台所には、足利義兼の娘も候補に挙がっていましたが、実朝に拒否されたため、京都に申し入れ坊門信子がなることに決まります。
坊門信子は、坊門信清の娘でしたが、後鳥羽上皇の従兄妹でもあったため、政治的な思惑から彼女が実朝の御台所に決定したようです。
それから14年後の建保7年(1219年)1月27日。
鶴岡八幡宮で、実朝は公暁(くぎょう、こうぎょう)に暗殺されます。
公暁は2代将軍頼家の子で、本来なら3代将軍になる可能性があったのですが、鎌倉幕府内での権力争いに巻き込まれ出家させられていました。
自分が3代将軍になっていたはずだと知った公暁は、実朝を亡きものにすれば自分が将軍になれると考えたのですが、犯行後、御家人の三浦義村に誅殺されてしまいました。
実朝暗殺の翌日。
坊門信子は出家し、それからしばらくして京都に戻っています。
大通寺で実朝の菩提を弔う
坊門信子は、実朝が暗殺されてすぐに帰京したことから、夫婦仲が悪かったように思ってしまいますが、そのようなことはありませんでした。
吾妻鏡には、実朝が信子や母北条政子らとともに芸能を楽しんだこと、永福寺(ようふくじ)で花見をしたことなどが記されており、むしろ夫婦仲は良かったと考えられます。
帰京した後の信子を見ても、それがうかがえます。
信子は、帰京すると、源氏ゆかりの地である西八条に遍照心院(へんじょうしんいん)を建て、実朝の菩提を弔います。
西八条は、東寺の北、現在の梅小路公園の辺りです。
この地には、かつて清和源氏の祖とされる源経基の邸宅があり、その子の満仲が父の墓所に一宇を建立していました。
源氏ゆかりの地である西八条に遍照心院を建てたのは、生前の実朝と仲が良かったことのあらわれでしょう。
大通寺の説明書によれば、貞応元年(1222年)に信子は、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺(まんしょうやまへんじょうしんいんだいつうじ)と名付けたとのこと。
「尼寺」と称して親しまれ、北条政子も当寺を援助したといわれており、後に十六夜日記の著者である阿仏尼も入寺しています。
その後も、足利尊氏や義満、織田信長や豊臣秀吉からも崇敬され、徳川氏代々も大いに興隆に努め大通寺は発展します。
しかし、江戸幕府の滅亡により衰微し、明治44年(1911年)には、寺地が旧国鉄の用地となったため、現在地に移転しています。
今の大通寺を見ると、広大な境内を有していたとは想像できませんね。

大通寺
遍照心院の塔頭だった本覚寺
萬祥山遍照心院大通寺と名付けた貞応元年には、塔頭(たっちゅう)の本覚寺も創建されています。
信子は出家し本覚尼と称していたことから、自らの法名を寺名としました。
本覚寺の説明書によると、その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱(1467年)による荒廃の後、細川政元により高辻烏丸に再建されたそうです。
現在の本覚寺は、京阪電車の清水五条駅から西に約5分歩いた河原町五条に近い場所に建っていますが、当地に移転されたのは、天正19年(1591年)のことで、豊臣秀吉の命によります。

本覚寺
現在の本覚寺が建つ地は、平安時代に源氏物語の光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(かわらのいんしおがま)の第のあった場所と伝わっています。
周辺では、光源氏の幽霊が出るとの噂もありますね。
外から山門を見ると、小ぢんまりとしたお寺のように思えますが、境内は意外と広々としています。
かつては、末寺14を有する本山でしたから、もっと広かったのでしょうが、今も、それなりの面積があり、境内には他にもお寺が建っています。
清和源氏ゆかりの地に残る六孫王神社
以前の大通寺の境内の北側は梅小路公園となっていますが、南側には六孫王神社が建っています。
東寺の北西角の辺りですね。
六孫王神社は、平安時代に源満仲が父経基と祖先の霊を祀るために創建した社で、その後は、大通寺の鎮守社として祀られていました。
現在の社殿は元禄14年(1701年)に江戸幕府により再建されたものです。
明治に大通寺が東寺の南東に移転した後も、六孫王神社はかつての境内地に残り、今は桜の名所として親しまれています。

六孫王神社
境内の北には新幹線の高架があり、お参り中に通過するのを見ることもありますね。
春になると、多くの参拝者が桜を見に訪れますが、ここで坊門信子が源実朝の菩提を弔っていたことを知る人は少ないでしょう。
その後の信子は、寛喜3年(1231年)の実朝の十三回忌に大通寺の堂供養を行い、嘉禎元年(1235年)の十七回忌では法華八講を修しています。
大通寺の本堂は、宝冠釈迦如来像を本尊として祀り、その脇には源実朝像も安置されており、当寺が、実朝の御影を祀って追善する寺であったことがわかります。
彼女は、夫実朝の菩提を弔い続け、文永11年(1274年)9月に82歳で永眠しています。