京都市下京区の西洞院松原に五條天神宮という神社が建っています。
五條天神宮は、平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇の命により空海が大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請したのが始まりとされ、医薬、禁厭(きんえん)、疫病除けの神さまとして崇められてきました。
ちなみに禁厭とはまじないのことです。
その五條天神宮ですが、室町時代に流罪になった経歴を持っています。
疫病を予防できなかった責任を問われる
五條天神宮は、地下鉄の五条駅から西に約10分歩くと到着します。
西洞院通に面して鳥居と神門が建っています。
五條天神宮の境内はビルに囲まれ、少々窮屈に感じます。
創建当時は、広々とした境内だったそうですが、今は街の中にひっそりと建つ神社といった感じで、平安遷都から続く古社といった雰囲気はあまり感じられません。
五條天神宮は、その名から天神と崇められている菅原道真を祀っているように思われますが、祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照大神です。
天神(あまつかみ)を祀る神社なので、「ごじょうてんじん」ではなく「ごじょうてんしん」と読むのが正しいようですが、「ごじょうてんじん」と紹介している書籍もあります。
さて、五條天神宮が流罪になった経緯ですが、それは、以前に紹介した『京都 知られざる歴史探検』の下巻に記述があります。
五條天神宮は、平安時代以来、疫病除けの神さまとして信仰を集めていたことから、天皇の病気や疫病流行の際には五條天神宮に靫(ゆぎ)という矢を入れる道具をかける習慣があったと徒然草の第二百三段に記されているほど、ご利益が期待されていました。
ところが、室町時代の応永28年(1421年)に疫病が流行した際、それを防止できなかったことから、責任を問われ天皇から流罪を命じられたと『看聞御記』の同年四月二十三日条に記されているそうです。
なお、『看聞御記』の同年四月二十三日条の現代語訳が、以下のウェブサイトからダウンロードできるPDFの124ページにあります。
流罪になったとの記述が簡素なため、その後、どうなったのかはわかりません。
五條天神宮は、豊臣秀吉の京都改造の際に境内を二分されたり、幕末の蛤御門(はまぐりごもん)の変で焼失したりと、何かと政治に翻弄されてきた歴史を持っています。
町中にひっそりと建つ五條天神宮の狭い境内を見ていると、意図的に目立たないようにしたのではないかと思えてきます。