織田信長の馬揃えは京都御所の東で行われた

天正9年(1581年)2月28日に織田信長が京都で馬揃えを行いました。

馬揃えは、当時の軍事パレードで、織田信長が自身の軍隊を正親町天皇(おおぎまちてんのう)に披露するために行われたものです。

場所は、禁裏の東だったということですから、現在の京都御所の東で馬揃えが行われたようです。

本能寺から北上して京都御所の東へ

馬揃えでは、京都御所の東に南北8町(約900メートル)の馬場が設営されました。

中公新書の『信長公記-戦国覇者の一級史料』の241ページには、当日、織田信長が馬場入りした時の様子を以下のように記しています。

信長は午前八時ごろ、下京本能寺を出発し、室町通りを上がり、一条を東へ馬場入りした。

現在の本能寺は、京都市役所の南側に建っていますが、織田信長の時代は、そこよりもっと西の油小路通の辺りに建っていました。

現在、当時の本能寺の跡地には、本能寺の変があった事を示す石碑が置かれています。

室町通は油小路通より東にあることから、織田信長は、午前8時に本能寺の東側から外に出たのでしょう。

そして、室町通を北にパッカパッカと馬に乗って一条通まで来たところで東に曲がり、京都御所の建物の北を通過して馬場入りしたと思われます。

京都御所の紫宸殿

京都御所の紫宸殿

現在の京都御所は塀で囲まれており、その北東角は猿ヶ辻と呼ばれています。

御所のすぐ東に馬場が設営されたのなら、猿ヶ辻から南に向かって約900メートルが馬揃えで使われた馬場ということになります。

京都御所の東側には、白砂が敷かれた広々とした道があり、これが馬揃えで使用した馬場かと思ってしまいますが、当時と今では京都御苑内の景観は違っていたでしょうから、ここを馬揃えで使った馬場と確定することはできません。

京都御所の東側

京都御所の東側

現在の京都御苑は、木々がたくさん植えられていますが、江戸時代には公家屋敷が建ち並んでいました。

安土桃山時代までさかのぼると、現在の京都御苑の景観はさらに異なっていたでしょう。

以前に紹介した書籍『京都 知られざる歴史探検』の上巻35ページに慶長年間(1596-1615年)の京都御苑付近の地図が掲載されており、それを見ると、現在の京都御所を囲むように屋敷が建ち並んでいるように見えます。

そうすると、建物がないところで馬揃えを行おうとすると、京都御苑の東側の寺町通(当時は東京極大路)辺りに馬場を設営したのでしょうか。

それとも、さらに東の河原町通付近だったのでしょうか。

しかし、そんなに遠い場所に馬場を設営したとも思えません。

「禁裏の東」と言うくらいですから、京都御所のすぐ東で馬揃えを行ったと考えるのが自然な気がします。

それなら、やっぱり、猿ヶ辻から南に約900メートルの馬場があったということになりそうです。

馬揃えの目的

織田信長が、馬揃えを行った目的は、正親町天皇と軋轢があったことから、武力で威圧して誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位を迫ることにあったと考えられていましたが、最近は、信長と朝廷は融和関係にあったことから、そうではないだろうと言われています。

正親町天皇は、馬揃えの後、信長におもしろい遊興を見ることができたと伝えており、また、3月5日に正親町天皇の望みで馬揃えが行われていることから、両者が対立していたようには考えられないようです。

馬揃えでは、山内一豊が妻千代の金策で手に入れた名馬にまたがって参加し、信長に大いに褒められたと伝えられていますね。

馬揃えは、京都馬揃えの後も安土で行われ、たくさんの見物人が押し寄せています。

また、信長の嫡男の信忠も、岐阜で馬揃えのような軍事調練を行っているようですから、京都馬揃えの目的が正親町天皇を威圧することにあったのではなさそうです。

京都御所の東側の白砂が敷かれた敷地で、馬揃えを模した行事が行われると国内外から多くの観覧者が訪れるのではないでしょうか。

時代祭の前日にでも開催されると大いに盛り上がりそうですね。

なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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