石清水八幡宮の裏参道の史跡

京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、奈良の大安寺の行教が、貞観元年(859年)に宇佐神宮のお告げを受けて勧請(かんじょう)したのが始まりです。

約1200年の歴史を持つ石清水八幡宮は、男山に鎮座し、朝廷や武家から篤く崇敬されました。

現在も男山に立派な社殿が建っていますが、かつては、男山のふもとから山頂まで様々な建物がありました。

今回は、石清水八幡宮の裏参道にある史跡を紹介します。

宝塔院跡

石清水八幡宮への参拝は、京阪電車の石清水八幡宮駅からケーブルに乗車し男山の山頂に向かうのが便利です。

本殿から東側のケーブル乗り場に向かう参道が、裏参道になっています。

社務所から裏参道を北に2分ほど歩いたところには、かつて宝塔院が建っていました。

宝塔院は、平安時代以降明治初年まであった天台密教系の仏塔です。

宝塔院跡

宝塔院跡

軒の四隅には、風が吹くと鳴るよう琴がかけられていたことから、琴塔(こととう)とも呼ばれていました。

説明書を読むと、江戸時代の設計図から、大きさは側柱(がわばしら)一辺が10.92メートル、高さが11.9メートルあったことがわかるようです。

宝塔院は方形の二重の塔であり、これは天台宗の大塔の様式で、現存する例は日本にひとつだけとのこと。

宝塔院は、明治の初め、神仏分離令によって取り除かれ、基壇の中央に参道が通されました。

石清水八幡宮には、かつて、本殿の西側にも真言宗の大塔がありました。

密教の別宗派の大塔が同じ境内に本殿とともに共存していたことは、当宮の神仏和合の精神をよく表しています。

北谷太西坊跡

ケーブル乗り場の近くにある展望台の入り口には、かつて太西坊がありました。

北谷太西坊跡

北谷太西坊跡

明治になるまで、石清水八幡宮は、神と仏を合わせ祀っており、江戸時代までたくさんの坊(小さな寺院)がありました。

これらは、男山四十八坊(おとこやましじゅうはちぼう)と呼ばれていました。

ここ展望台近くにあった太西坊は、忠臣蔵ゆかりのお寺です。

太西坊住職の専貞(せんてい)は、赤穂藩家老の大石内蔵助の実弟で、専貞の跡を継いだ覚運は内蔵助の養子です。

藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りつけた松の廊下事件により、赤穂藩は取り潰しとなります。

大石内蔵助は、赤穂城を明け渡した後、14~15人で仮住まいできるところを上方で探して欲しいと太西坊に手紙を送っていたそうです。

赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、覚運が仇討を手伝ったことが評判となり、たくさんの寄付が集まって太西坊を再興したと伝えられています。

ちなみに覚運の墓は、男山のふもとの善法律寺にあります。

護国寺跡

裏参道を下りていきます。

初夏ということもあり、参道脇では、クサノオウが咲いていました。

クサノオウ

クサノオウ

裏参道の開けた場所に建っていたのは、護国寺です。

護国寺跡

護国寺跡

八幡神を男山に遷した行教は、当地に前からあった山寺を改め護国寺と名付けました。

本殿と一体となり全山を取り仕切る重要な建物だったそうです。

平成22年(2010年)の発掘調査で、文化13年(1816年)に建てられた本堂の柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側には地鎮祭の跡があったそうです。

銅でできた輪宝に独鈷杵(どっこしょ)を突きたてる天台宗の方式で、八角形に配置し、須弥壇を取り囲んでいたとのこと。

しかし、護国寺も明治初年に破却されています。

太子坂・萩坊跡

細く急な石段を下って行きます。

石段

石段

その途中に建っていたのは、萩坊です。

太子坂・萩坊跡

太子坂・萩坊跡

萩坊には、安土桃山時代の画家である狩野山楽が豊臣秀吉に追われ隠れ住んだお寺です。

客殿は、山楽が描いた金張付極彩色の図で飾られていたそうです。

裏参道は太子坂とも呼ばれており、約700年前には、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通ったとの記録が残っています。

坂を下ると聖徳太子3歳の像を祀った太子堂があり、室町時代には他に丈六(約3メートル)の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もあったそうです。

萩坊も、神仏分離令で破却されましたが、太子堂は難を逃れ、滋賀県大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています。

頓宮・極楽寺跡

裏参道を下り北にまっすぐ進むと、頓宮(とんぐう)・極楽寺跡があります。

頓宮・極楽寺跡

頓宮・極楽寺跡

頓宮は、回廊に囲まれた一角であり、毎年9月15日に勅祭(ちょくさい)石清水祭が行われます。

江戸時代以前には、東に頓宮、西に極楽寺がありましたが、現在の西側の建物は頓宮斎館になっています。

極楽寺は、元慶7年(883年)に石清水八幡宮初代別当・安宗が建立した男山のふもとの中心的施設です。

しかし、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで周辺の建物が焼失し、極楽寺に祀られていた宝冠阿弥陀如来像は、善法律寺に移されたと伝えられています。

以上、石清水八幡宮の裏参道にある史跡を見てきました。

現在の石清水八幡宮は、神社の建物ばかりとなっていますが、かつては多くの仏教施設がありました。

江戸時代までは、男山が神仏習合の地であったことがよくわかります。

なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。