毎年9月15日は、京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、石清水祭が催されます。
石清水祭は、15日の未明から午後8時まで続き、その間に様々な行事が行われます。
全ての行事を見るのは、なかなか厳しいものがあるので、一部だけを見る人が多いと思います。
今年は、午後5時頃から行われた還幸の儀を見に行ってきました。
御鳳輦発御
石清水八幡宮の最寄り駅は、京阪電車の八幡市駅です。
八幡市駅からは、ケーブルに乗車して男山の山上に向かうのが便利ですが、還幸の儀は、男山のふもとに建つ頓宮(とんぐう)で行われるので、ケーブルに乗る必要はありません。
なお、八幡市駅は、2019年10月1日から石清水八幡宮駅に改称されます。
午後5時頃、安居橋(あんごばし)の近くのベンチに座っていると、頓宮から雅楽が聞こえてきました。
還幸の儀が始まったようなので、頓宮の門の前にやってきました。
石清水祭は、貞観5年(863年)に石清水放生会(ほうじょうえ)として始めまりました。
石清水放生会は、八幡大神が男山の裾を流れる放生川のほとりに臨み、生ける魚鳥を放って「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀であり、現在の石清水祭でも、放生行事が催されています。
ちなみに貞観年間は、京都市内で祇園祭も始まり、今もなお続いていますね。
石清水祭は、祇園祭と同じくらい歴史のある行事なのです。
その後、天暦2年(948年)に勅使が遣わされて以降、勅祭として斎行されるようになりました。
延久2年(1070年)には、当日に太政官勤務の最上位である上卿が勅使を兼ねるようになり、神輿の渡御も行われ、祭礼に荘厳さが増していきます。
しかし、15世紀以降、戦乱によって祭礼は中絶します。
復活したのは、延宝7年(1679年)のことです。
明治に入ってからは、石清水放生会から仲秋祭、男山祭と改称され、同時期に社名も男山八幡宮に変わりました。
その後、大正7年(1918年)に社名が石清水八幡宮に復したことから、男山祭も石清水祭と呼ばれるようになります。
午後6時30分頃となり、御鳳輦(ごほうれん)が頓宮の前に据えられました。
御鳳輦には、発御のために神霊が遷されていきます。
石清水八幡宮の祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)、比咩大神(ひめおおかみ)、身長帯比売命(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)の3柱の神さまで、八幡大神と総称されています。
中、左、右の順に御鳳輦は頓宮の中に入り、神霊が遷されていきます。
そして、準備が整うと、御鳳輦が頓宮を出ます。
先頭から様々な提灯を持った列が進んでいきます。
雅楽が聞こえてきたり、矛を持った列も進みます。
途中では、獅子舞も登場し、頭をカポっと噛まれましたよ。
御鳳輦の列もやって来ました。
還幸の列は、頓宮の前から表参道を上って本殿へと向かいます。
南総門前で見る還幸の列
還幸の列が過ぎ去った後、頓宮前にやって来ました。
篝火が焚かれ、周囲はとても熱かったです。
頓宮付近は、還幸の列が過ぎた後、徐々に静かになっていきました。
この後は、裏参道を上り、男山山上に向かいます。
裏参道は、表参道よりも石段が急なので、上るのに一苦労です。
急いで裏参道を上がったので、15分ほどで本殿の前の南総門近くにやって来れました。
還幸の列は、先頭の方はすでに到着していたようですが、御鳳輦の列はまだこれからのようです。
手水舎の近くで静かに待っていると、再び獅子舞と遭遇。
そして、また頭をカポっと噛まれました。
午後7時15分頃に御鳳輦の列がやってきました。
御鳳輦の列は、ゆっくりと南総門をくぐっていきます。
後から続く御鳳輦は、手水舎の手前の石段下でいったん待機。
前の御鳳輦が南総門をくぐったのを確かめ、進み始めます。
そして、3基の御鳳輦が南総門をくぐり、後から続く列も南総門をくぐっていきました。
時刻は午後7時30分頃。
還幸の列は無事に本殿に到着。
この後、しばらく南総門の前にいたのですが、何かが行われる気配がなかったので、石清水八幡宮から出ることにしました。
石清水祭は、16日の後朝祭(こうちょうさい)で、諸儀が無事斎行されたことを報謝して終了となります。
石清水祭は、夜や早朝の行事が多いので、観覧しにくいですが、午前10時の舞楽奉納や午後1時の演武奉納なら見に行きやすいですよ。
機会がありましたら、石清水祭を見に行ってください。
なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。