乙訓地方の大型農家の住宅・河合家住宅

以前に京都府長岡京市に建つ光明寺にお参りに行く途中、河合家住宅の前を通りかかりました。

民家に混ざって建っていたため、見過ごしてしまいそうでしたが、建物の前に説明書が立っていたので、それが文化財であることがわかりました。

一体どういう住宅なのか、興味を持って説明書を読んでみることに。

河合辰直が購入した住宅

下の写真に写っているのが、河合家住宅です。

河合家住宅

河合家住宅

説明書によると、河合家住宅は、明治5年(1872年)に乙訓(おとくに)郡第6区の区長、同8年に乙訓郡総代等を歴任した河合辰直(かわいときなお)が、明治13年に取得したものだそうです。

主屋、土蔵、東北の築地塀が江戸後期の建造物で、表門、高塀、露地門、仕切り塀が大正時代の建造物です。これらは平成23年(2011年)に国登録有形文化財に登録されています。

主屋は、乙訓地方の大型農家の一例として造形の規範とされていたそうです。

私は、ただ通りかかっただけなので、中に入っていません。

なので、建物内の様子はわかりませんので、さらに詳しく知りたい方は、長岡京市のホームページと長岡京市観光協会のブログをご覧になってください。

河合辰直って誰?

ところで、河合辰直とは、どういった人物なのでしょうか。

検索して調べてみたのですが、上で少し紹介した経歴の他に元淀藩士ということしかわかりませんでした。

淀藩士であったということは、おそらく、最後の藩主稲葉正邦に仕えていたのでしょう。

稲葉正邦は、幕末に老中を勤め、15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が京都にいる間、江戸で政務を担っていました。

慶応4年(1868年)に起こった新政府軍と旧幕府軍の戦いである鳥羽伏見の戦いでは、藩主が老中を勤めていたため、淀藩は旧幕府軍に味方するものと思われていました。

ところが、伏見から退却してくる旧幕府軍が、軍勢の立て直しのために淀城に入ろうとすると、淀藩はこれを拒み、新政府軍に味方することにしたのです。

そのため、旧幕府軍はそのまま大坂城まで撤退。その後、江戸にいる稲葉正邦は、老中を辞任し淀城に戻り、新政府に恭順しました。

幕末の淀藩の状況は、簡単にいうと上のような状況だったわけですが、河合辰直が、当時、淀城にいたのか、江戸にいたのかはわかりません。

結局、河合辰直については、元淀藩士であることと乙訓郡第6区の区長等を勤めたこと以外、詳しいことはわかりませんでした。

ただ、彼が住んでいた住宅は、今もなお文化財として保存されていることは確かです。