吉野時代の次は、時代祭の行列は鎌倉時代に遡ります。
鎌倉時代は、他の時代と異なり、行列は城南流鏑馬列(じょうなんやぶさめれつ)のひとつだけです。
行列は、それほど長くないので、あっという間に通り過ぎてしまいます。
城南流鏑馬列
鎌倉時代の幟が通り過ぎていきます。
その後に小ぶりの城南流鏑馬列の幟が進みます。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇は、鳥羽の城南離宮で、近畿諸国から1,700人余りの武士を招き流鏑馬を盛大に催しました。
流鏑馬は、馬に乗った射手が、馬を走らせながら、3つの的に連続で矢を射るものです。
時代祭の行列では、射手が登場するのはもちろんのこと、3つの的まで横一線に並んで進んでいきます。
城南流鏑馬列は、本当に短く、見るものは騎馬武者と的だけでした。
後鳥羽上皇が流鏑馬を催したのは、鎌倉幕府を倒すことことが理由でした。
平家が政治を担い、その後、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、政治の中心は朝廷から武士に移りました。
これを面白く思わなかった後鳥羽上皇が、もう一度、朝廷中心の政治を行うために近畿諸国の武士を集めて倒幕を企てたのが承久の乱です。
しかし、諸国の武士たちの鎌倉幕府への忠誠は篤く、源頼朝の恩に報いるために集まった武士たちによって、乱はすぐに鎮圧されました。
戦いに敗れた後鳥羽上皇は、その後、隠岐に流されることとなります。
そして、延応元年(1239年)2月22日に配流先で60年の生涯を遂げました。
配流先では、後鳥羽上皇は、仏道に励む日々だったと伝えられています。
鎌倉時代は、朝廷から武士に政権が移った時代だったので、時代祭の行列も短いのでしょうか。
登場した城南流鏑馬列も朝廷とかかわりのある武士たちで、鎌倉武士とは違います。
鎌倉時代は、140年ほどとそれほど長くない時代でしたが、元寇という大きな出来事があったのですから、元と戦うために九州に向かった武士たちの行列が登場しても良さそうなんですけどね。
他にも源頼朝の上洛列があっても良いのではないでしょうか。
やはり、時代祭は、明治時代にできた祭なので、皇室と敵対した歴史上の人物は除外されていたのかもしれませんね。
鎌倉時代の行列が増えると、さらに祭が盛り上がると思うので、検討して欲しいです。
鎌倉時代の後は、藤原時代へと続いていきます。
藤原時代は、華やかな行列がたくさん登場するので、時代祭の観覧の際は、見逃さないようにしたいですね。