江戸幕府の始まりと終わりの舞台・二条城

京都市中京区は、ビジネス街として有名な街です。

そのため、中京区は、ビジネスマンやキャリアウーマンの方が多いといった特徴があります。

また、中京区の西の方に行くと二条城があり、中京区は、観光や旅行でお越しになった方々でも賑わっています。

二条城は、平成6年(1994年)に世界遺産に登録され、まさに中京区のシンボルと言えるのですが、歴史的に見ると二条城は江戸幕府の始まりと終わりの象徴と言えます。

政権を奪い取った城

慶長5年(1600年)に天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の合戦が起こります。

東軍の総大将は徳川家康。対する西軍の総大将は毛利輝元。

両軍合わせて20万人もの軍勢が岐阜県の関ヶ原で戦いましたが、西軍の小早川秀秋の裏切りで、わずか1日で決着がつき、東軍の勝利となりました。

東軍も西軍も戦の大義は、豊臣秀頼に対する反逆者を討伐するというものでしたが、実は、家康の目的は豊臣家から政権を奪い取ることにありました。

そこで、家康は、慶長7年5月に京都御所の守護の目的と自らが将軍となり上洛する際の宿泊所とするために二条城の築城を開始します。

そして、翌年、二条城が完成し、この城で朝廷より征夷大将軍に正式に任命されました。

つまり、二条城は、家康が豊臣家から政権を奪い取った舞台だったのです。

余談ですが、家康が征夷大将軍に任命されたのは伏見城と二条城のどちらなのかといったことが議論されることがあります。

慶長8年2月12日に後陽成天皇が勅使を伏見城に派遣し征夷大将軍に任命、そして、3月21日に二条城で将軍宣下が行われました。

朝廷からの正式な将軍宣下は同27日とされます。

詳しくは、徳川家康 – Wikipediaをご覧ください。

二条城には天守閣があった

現在の二条城には天守閣がありません。

家康が築城した時にも天守閣はありませんでした。

では、築城から現在まで天守閣が存在しなかったのかというと、そうではなく、3代将軍家光が、寛永3年(1626年)に本丸を増築した際に、五層の天守閣が建築されています。

しかし、寛延3年(1750年)に落雷で焼失し、その後、再建されずに現在にいたっています。

二条城の天守閣跡からの景色

二条城の天守閣跡からの景色

大政奉還の舞台となった二の丸御殿の大広間

時は過ぎて、慶長3年(1867年)10月13日。

この日、二条城の二の丸御殿の大広間で、15代将軍慶喜が諸侯に対して大政奉還を発表しました。

そして、翌日、政権が朝廷に返されます。

現在、二の丸御殿の大広間では、人形を使って大政奉還の場面が再現されています。

御殿内は撮影が禁止なので、写真を撮ることはできませんでした。

大政奉還の舞台となった二の丸御殿

大政奉還の舞台となった二の丸御殿

大政奉還を慶喜に勧めたのは、土佐藩の後藤象二郎で、その内容は坂本竜馬が提案した船中八策の第一策でした。

「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事」

上がその内容です。

なお、船中八策は、後に新政府が公布した五箇条の御誓文の基礎ともなっています。

家康が豊臣家から政権を強引に奪い取った舞台が二条城だったわけですが、その政権を慶喜が投げ出した舞台も二条城だったというのは、なんとも皮肉なものですね。

明治以降の二条城

大政奉還の後、二条城は朝廷のものとなり、慶応4年1月に現在の内閣にあたる太政官代が置かれ、明治4年(1871年)には二の丸御殿内に府庁が置かれました。

そして、明治17年には二条離宮となり、昭和14年(1939年)に京都市に下賜され、現在にいたっています。

二条城の立札には、かつて離宮であったことを示す「元離宮二条城」と記されています。

武家の城に「離宮」と付いているのは、なんだか違和感がありますが、そこに武家の時代から近代への変遷を感じさせます。

なお、二条城の詳細と写真は、下のページを参考にしてみてください。

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