江戸時代一覧

京都にある三井発展の地・三井越後屋京本店記念庭園

京都市中京区の二条室町を歩いていると、立派なお屋敷があるのに気づきました。 まるで江戸時代のお屋敷のように瓦が乗った塀に囲まれていたので、大金持ちの方の邸宅なのだろうと思い、外から眺めていたのですが、どうも、居住空間であるべき建物が見当たりません。 一体、この敷地は何なのだろうと、門の前に行ってみると、そこには、「三井越後屋京本店記念庭園」と刻まれた石柱が立っていました。 どうやら、三井越後屋の建物跡のようですね。

京都市内最大規模の町家・杉本家住宅

京都らしさを感じる景色とは、どのようなものでしょうか。 すぐに思いつくのは、神社やお寺が建っている景色でしょうね。 他には、町並みに京都らしさを感じることができますよね。 祇園や先斗町(ぽんとちょう)を歩いていると、今、自分は京都にいるんだなと実感することがあります。 また、ビジネス街を歩いていても、突然、京都らしい景色に出会うことがあります。 その代表が、町家です。 地下鉄四条駅から西に5分ほど歩いた辺りに建つ杉本家住宅も町家なのですが、この町家は、京都市内最大規模だということです。

豊臣秀頼が再建した京都の寺社

元和元年(1615年)に起こった大坂夏の陣で、豊臣家は滅びました。 徳川家康は、豊臣家を滅ぼすためにあれこれと画策をして戦の口実を作り大坂城を攻めたわけですが、その前に豊臣秀吉が子の秀頼のために残した莫大な資金を使わせて経済的に疲弊させようとします。 そのために家康が考えたのが、豊臣家に各地の寺社を再建させることでした。 寺社の再建には多額の資金が必要になります。なので、豊臣家の莫大な金銀を消費させるには、ちょうど良かったんですね。 秀頼の名で再建した寺社は様々なところにありますが、その中でも、京都の有名な寺社に多額の資金が使われています。

善法律寺にある覚運の墓塔

京都府八幡市に建つ善法律寺には、忠臣蔵と関係のある人物の墓塔があります。 その人物とは、覚運です。 あまりなじみのない名前ですが、覚運は、大石内蔵助の養子になった人物で、後に男山四十八坊のひとつ大西坊を再興したお坊さんです。

大坂淀屋が寄進した高灯籠がある與杼神社

京都市伏見区の京阪淀駅は、京都競馬場の最寄り駅です。 週末になると、たくさんの人が淀駅で降りますね。 駅を出て、京都競馬場とは反対の方向に5分ほど歩くと、與杼神社(よどじんじゃ/与杼神社)があります。 以前は、神社の入り口付近が淀駅の改札となっていましたが、現在は競馬場近くに駅が移ったため、與杼神社の周辺は、以前よりも閑散としています。 その與杼神社の本殿脇には、江戸時代の豪商の大坂淀屋とゆかりのある高灯籠が立っています。

時代祭に登場する玉蘭という女性は誰?

毎年10月22日に京都で行われる時代祭。 人々が歴史上の人物に扮した行列が、京都の街を練り歩く時代祭は、京都三大祭のひとつです。 男性の場合、坂本竜馬、羽柴秀吉など、有名な人物が多いのですが、女性の場合は聞きなれない人がたくさん登場します。 もちろん清少納言や紫式部といった有名どころも登場しますが、そうでない女性が多いように感じます。 その中でも、江戸時代の玉蘭という女性をご存知の方は少ないのではないでしょうか。

京都各地に散らばる血天井

慶長5年(1600年)は、関ヶ原の戦いが起こった年として有名ですね。 その関ヶ原の戦いが起こる前に京都の伏見城で、東軍と西軍の戦いが起こっています。 この年の6月18日に徳川家康は、上杉討伐のために東に出陣するわけですが、伏見城で家臣の鳥居元忠に別れを告げます。 鳥居元忠は、家康の留守中に西軍が伏見城を攻めてくることをわかった上で、城を枕に討ち死にする覚悟。 そして、7月19日に宇喜多秀家や吉川広家らが率いる西軍4万が伏見城にたてこもる2千名弱の鳥居勢に襲いかかります。 激しい攻防の末、8月1日に伏見城は落城、鳥居元忠と残兵380名余りは、自害して果てました。 ...

日本にも奴隷制度はあったのか?

西洋の歴史の中では、奴隷制度が出てきます。 西洋の奴隷は、人格を完全に否定され、自由も拘束された人たちだったわけですが、こういった奴隷制度が日本にもあったのでしょうか。 日本史の中では、西洋のような奴隷制度は、あまり出てこないので、なかったように思いますが、まったくなかったわけではありません。

道路工事で牛馬の喉の渇きを潤した亀の水不動

江戸時代中期に3年がかりで行われた東海道日ノ岡峠の改修工事は、木喰正善養阿(もくじきしょうぜんようあ)が心血を注いで行った事業です。 日ノ岡は、今の京都市山科区にあり、この辺りは、車の交通量が多いですね。 山科区には、木喰遺跡と呼ばれるものがいくつかあり、地下鉄御陵(みささぎ)駅から南の方に10分ほど歩いた辺りにひっそりと建つ亀の水不動もそのひとつです。

幕末より100年も前に尊王思想を唱えた藤井右門

京都市上京区の同志社大学の近くを歩いていると、人の背よりも高い石碑を発見しました。 その石碑の前の説明書には、藤井右門(ふじいうもん)宅跡と書かれていました。 藤井右門は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩の家臣であった藤井又左衛門の子で、赤穂藩取り潰しの後、又左衛門が移り住んだ越中国射水で享保5年(1720年)に生まれました。