
あまりにも地味な明智光秀の塚
天正10年(1582年)。 本能寺で、主君織田信長を討った明智光秀は、その後、中国地方から素早く戻ってきた羽柴秀吉と天王山で戦います。 この戦いは、山崎の戦いと呼ばれ、光秀が秀吉に敗れたことで決着しました。
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天正10年(1582年)。 本能寺で、主君織田信長を討った明智光秀は、その後、中国地方から素早く戻ってきた羽柴秀吉と天王山で戦います。 この戦いは、山崎の戦いと呼ばれ、光秀が秀吉に敗れたことで決着しました。
京都市東山区の円山公園近くに建つ長楽寺には、幕末、天皇を敬い外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛んだった水戸藩の関係者のお墓が多数あります。 この時期の水戸藩の活動は、明治維新に大きく貢献することになります。 ただ、当時活躍した水戸烈士たちは、幕末に命を落とした者が多く、あまり有名ではありません。 今回の記事では、長楽寺にひっそりと眠る水戸烈士たちのお墓を紹介します。
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉があります。 家にある小学館の国語辞典で、その意味を調べてみると、「大決心をもって、ことをおこなう気持ちのたとえ」と記されていました。 でも、この言葉は、昔はこういった意味ではなかったようです。
京都府乙訓郡大山崎町の天王山の山頂に「十七烈士の墓」があります。 天王山の史跡というと、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの碑が有名ですが、十七烈士の墓も幕末維新の史跡として重要なものです。
崇道天皇(すどうてんのう)。 延暦19年(800年)に早良親王(さわらしんのう)に贈られた称号です。 この時期、皇位についていたのは第50代の桓武天皇です。 では、崇道天皇は、第51代の天皇かというとそうではありません。実際の第51代天皇は平城天皇(へいぜいてんのう)です。 そうすると崇道天皇とは、一体どういった天皇だったのでしょうか。
寿永4年(1185年/元暦2年)3月24日。 この日、山口県の壇ノ浦で、源氏と平家の最終決戦が行われました。
平安時代末期に権力を握っていたのは、平家一門でした。 しかし、大いに栄えた平家もやがて源氏によって滅ぼされることになります。 そのきっかけとなった史跡が京都府宇治市の平等院に今も残っています。
京都の街を歩いていると、思いがけないところに史跡があったりします。 ある日、京都市上京区の本法寺に参拝し、次に妙顕寺を訪れようと小川通を南に歩いていると、東西を通る寺之内通に突き当たる辺りで、百々橋(どどばし)の礎石を発見しました。 説明書を読んでみると、どうやら応仁の乱の史跡のようです。
京都府乙訓郡大山崎町には、天王山があります。 「天下分け目の天王山」という言葉は、大山崎町の天王山が語源で、天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が雌雄を決した地として知られています。 山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、その後、次々とライバルを打ち破っていき、やがて天下統一を果たすことになります。 この羽柴秀吉の天下統一の第一歩となった山崎の戦いの解説を記した「秀吉の道」という大きな板が、天王山の麓から山頂まで全部で6つあります。
坂本竜馬は、日本で初めて新婚旅行をしたことで知られています。 旅行先は現在の鹿児島県です。 竜馬の結婚相手は、お竜という女性です。 竜馬とお竜が出会った場所は、現在の京都市東山区で、そこには土佐志士寓居跡の石碑があります。