
新風館が建つ場所は平治の乱の悲劇の舞台だった・三条東殿跡
京都市中京区の三条烏丸に新風館というショッピングモールがあります。 新風館はなかなかおしゃれな空間で、若い人たちに人気があり、ラジオの公開放送なんかも行われたりします。 この新風館の建つ辺りは、平安時代には、三条東殿という白河法皇の院の御所があった場所です。
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京都市中京区の三条烏丸に新風館というショッピングモールがあります。 新風館はなかなかおしゃれな空間で、若い人たちに人気があり、ラジオの公開放送なんかも行われたりします。 この新風館の建つ辺りは、平安時代には、三条東殿という白河法皇の院の御所があった場所です。
元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅びた後、5月23日には新田義貞により鎌倉幕府も攻め滅ぼされました。 新田義貞の挙兵は5月8日と伝えられているので、わずか2週間ほどの間に鎌倉幕府を倒したことになります。 もちろん、これは新田義貞の功績ではありますが、事前に足利高氏がその子の千寿王をわずか4歳で新田勢に加勢させ、それにより諸国から数多くの武士が討幕のために加わってきたことも瞬く間に幕府を倒せた理由でもあります。 ここに約150年続いた鎌倉幕府は終焉を迎えました。
元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡した後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさたたあき)、赤松円心が京都に留まります。 まだ、後醍醐天皇の還幸前だったので、戦後の混乱から京都の治安が悪化することを防ぐためでした。 そして、足利高氏は、六波羅に奉行所を置き、弟の直義に強盗などの街の治安を乱す者たちの取り締まりを命じ、捕えたものには厳罰を与えるように指示しました。
元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡しました。 隠岐の島から脱出し船上山(せんじょうせん)にあった後醍醐天皇は、この知らせを聞いて、5月23日に京都へ向けて出発します。 後醍醐天皇は、名和長年、塩谷高貞(えんやたかさだ)、朝山太郎らに警護され、5月26日に播磨の千本宿に到着、翌27日には書写山に行幸しました。
久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。 六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。 元弘3年(1333年)5月6日。 足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。
金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させることにしました。 これまで、仮病を使って出陣を拒んでいた足利高氏も今回は、執権の北条高時の命を拒否できず、妻子を人質に差し出して西へと向かうことになりました。 北条高時は、足利高氏がすすんで妻子を人質として差し出したことに大いに喜び、源義家より伝わる源氏の白旗を高氏に与えます。 名越勢と足利勢が上洛すれば、後醍醐天皇方の反乱も鎮まるはずと期待は膨らみます。
元弘2年(1332年)に討幕を企てた後醍醐天皇は隠岐に流されました。 この時、天皇とともに隠岐に流された近臣には、一条行房と千種忠顕(ちぐさただあき)がいます。 隠岐に流された後醍醐天皇は、幕府の監視の中で、囚人として日々を送ることになりました。 しかし、幕府の警備の兵の中には、後醍醐天皇を隠岐から救い出し、京都に戻そうと計画している者たちがいました。
元弘2年(1332年)に楠木正成が天王寺で討幕のために挙兵し、その後、11月には護良親王(もりながしんのう)も吉野で挙兵しました。 これに対して、鎌倉幕府も楠木正成がたてこもる赤坂城と千早城、護良親王がたてこもる吉野へ大軍を動員し、反乱を鎮めようとします。 幕府軍が、楠木正成と護良親王に手を焼いている間、今度は、元弘3年1月に赤松円心が播磨で挙兵しました。
京都市山科区にある天智天皇陵は、天皇が遠乗りに出かけ行方不明となり、沓(くつ)が落ちていた場所に造営されたという説があります。 確証はあっても埋葬されているのかわからない天智天皇山科陵 天智天皇は、病死というのが通説ですが、実は暗殺されたのではないかともいわれています。 天智天皇が行方不明になったという説が、暗殺説の背後にあるわけですが、では、暗殺したのはいったい誰なのでしょうか? これについては、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)ではないかと考えられています。
天智天皇と言えば、大化元年(645年)の大化の改新の中心人物として知られています。 まだ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と呼ばれていた頃、中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原鎌足)とともに蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、その父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自害したことで、政治の中心が蘇我氏から天皇へと移りました。 その天智天皇が崩御したのは、天智天皇10年(672年)で、陵(みささぎ)は京都市山科区にあります。