
常盤御前ゆかりの地・源光寺
平治元年(1159年)。 平清盛と源義朝が戦う平治の乱が起こりました。 平治の乱は、最終的に平清盛の勝利に終わり、源義朝は家臣の長田忠致(おさだただむね)の裏切りにより、この世を去りました。 また、平家は、義朝の長男の義平も捕え、六条河原で処刑しました。 他にも義朝には、たくさんの子がおり、平家はその子たちを捕えようと都とその周辺を探索します。 その中には、義朝と常盤御前の間に生まれた3人の男子も含まれていました。
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平治元年(1159年)。 平清盛と源義朝が戦う平治の乱が起こりました。 平治の乱は、最終的に平清盛の勝利に終わり、源義朝は家臣の長田忠致(おさだただむね)の裏切りにより、この世を去りました。 また、平家は、義朝の長男の義平も捕え、六条河原で処刑しました。 他にも義朝には、たくさんの子がおり、平家はその子たちを捕えようと都とその周辺を探索します。 その中には、義朝と常盤御前の間に生まれた3人の男子も含まれていました。
近代の政治家の中には、幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた人物がたくさんいます。 西郷隆盛や大久保利通など、明治時代前期の政治家が、その典型ですね。 明治維新から約70年経った昭和15年(1940年)。 すでに幕末は、歴史の世界となりつつあった時代に西園寺公望(さいおんじきんもち)が亡くなりました。 西園寺公望は、明治時代後期の総理大臣で、最後の元老となった比較的現代に近い近代の政治家といったイメージがあります。 ところが、意外に思えるかもしれませんが、彼も幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた政治家の一人だったのです。
クレオパトラ、楊貴妃、小野小町。 上記の3人の女性は、世界3大美人とされています。 京都市山科区の随心院には、3大美人の日本代表である小野小町の史跡が存在することで知られています。
京都には、49ヶ所74人の天皇陵があります。 千年以上都がおかれた都市なので、やはり多いですね。 今までこのブログでは、あまり天皇陵を紹介してきませんでした。 どの天皇陵も見た目がほとんど同じというのが、その理由だったのですが、しかし、京都で天皇陵を無視するというのもどうかと思い、今回の記事から少しずつ紹介していくことにしました。 第1回目の今回は、左京区の吉田山付近にある後二条、後一条、陽成の3人の天皇陵を紹介します。
京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。 別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。 そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。
嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。 この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。 彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。 その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。
治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。
寿永4年(1185年/元暦2年)2月。 現在の香川県で、源氏と平家が合戦をしました。 世に言う屋島の戦いです。 屋島の戦いで有名なのが、源氏の武者で弓の名手である那須与一(なすのよいち)の活躍です。
京都市上京区の京都御苑の東にたくさんの木が生い茂った場所があります。 そこには、木々の中に埋まるように梨木神社(なしのきじんじゃ)という神社が建っています。 たくさんの木が生い茂っている場所に建てられた神社なので、かなり昔から存在していたんじゃないかと思っていたのですが、実は創建時期は明治時代だそうです。
平安時代末期、祇王という白拍子がいました。 白拍子とは、当時の男性の恰好をして、歌を歌ったり、舞を披露する女性のことです。 祇王は、白拍子の中でも歌や舞がとても上手だったので、当時の都では、その名が知られていました。