
小野小町ゆかりのお寺・随心院
クレオパトラ、楊貴妃、小野小町。 上記の3人の女性は、世界3大美人とされています。 京都市山科区の随心院には、3大美人の日本代表である小野小町の史跡が存在することで知られています。
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クレオパトラ、楊貴妃、小野小町。 上記の3人の女性は、世界3大美人とされています。 京都市山科区の随心院には、3大美人の日本代表である小野小町の史跡が存在することで知られています。
京都には、49ヶ所74人の天皇陵があります。 千年以上都がおかれた都市なので、やはり多いですね。 今までこのブログでは、あまり天皇陵を紹介してきませんでした。 どの天皇陵も見た目がほとんど同じというのが、その理由だったのですが、しかし、京都で天皇陵を無視するというのもどうかと思い、今回の記事から少しずつ紹介していくことにしました。 第1回目の今回は、左京区の吉田山付近にある後二条、後一条、陽成の3人の天皇陵を紹介します。
京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。 別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。 そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。
嘉永6年(1853年)のペリー来航から約15年の間、日本は幕末、維新の動乱の時代となりました。 この15年で、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)、坂本竜馬など明治維新に貢献した人物が多数出現します。 彼らの活躍によって明治維新の実現へと向かうわけですが、その総仕上げをするために彗星のように現れた人物がいました。 その人物の名は、大村益次郎(おおむらますじろう)。
治承4年(1180年)5月。 以仁王(もちひとおう)が源頼政とともに平家追討のために挙兵します。 以仁王側には園城寺(おんじょうじ)などの僧も加わりましたが、最終的に平家によって鎮圧されました。 この挙兵に僧が加わったことが、後に平家による南都焼討へとつながり、その時の総大将であった平重衡(たいらのしげひら)の運命を変えることになります。
寿永4年(1185年/元暦2年)2月。 現在の香川県で、源氏と平家が合戦をしました。 世に言う屋島の戦いです。 屋島の戦いで有名なのが、源氏の武者で弓の名手である那須与一(なすのよいち)の活躍です。
京都市上京区の京都御苑の東にたくさんの木が生い茂った場所があります。 そこには、木々の中に埋まるように梨木神社(なしのきじんじゃ)という神社が建っています。 たくさんの木が生い茂っている場所に建てられた神社なので、かなり昔から存在していたんじゃないかと思っていたのですが、実は創建時期は明治時代だそうです。
平安時代末期、祇王という白拍子がいました。 白拍子とは、当時の男性の恰好をして、歌を歌ったり、舞を披露する女性のことです。 祇王は、白拍子の中でも歌や舞がとても上手だったので、当時の都では、その名が知られていました。
平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱です。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との間の権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 そして、その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。