大徳寺と戦国武将

京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。

別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。

そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。

瑞峯院

大徳寺境内の中心よりやや南に建っている瑞峯院は、天文4年(1535年)に大友宗麟(おおともそうりん)が、自らの菩提寺として建立しました。

瑞峯院

瑞峯院

大友宗麟は、九州の戦国武将で、キリシタン大名としても知られています。

宗麟がキリスト教の洗礼を受けたのは、瑞峯院を建立してかなりの年月が経ってからです。

後に宗麟は、豊臣秀吉の傘下に加わっています。

境内墓地には大友宗麟夫妻の墓があります。

高桐院

大徳寺境内の東に建つ高桐院は、天正18年(1590年)に細川忠興(ほそかわただおき)が、父の細川幽斎の菩提を弔うために建立しました。

高桐院

高桐院

忠興は、明智光秀の娘のガラシャと結婚しますが、本能寺の変の後、彼女を丹後に幽閉し、山崎の戦いで光秀に味方することを断りました。

また、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に加わり、その戦功から豊前国を与えられています。

境内には、忠興とガラシャの墓があります。

黄梅院

大徳寺境内の南の端に位置する黄梅院(おうばいいん)は、永禄5年(1562年)に織田信長が父の信秀の追善菩提のため、羽柴秀吉に命じて建立させました。

黄梅院

黄梅院

天正17年(1586年)に小早川隆景によって改築され、毛利家の菩提寺となっています。

小早川隆景は、毛利元就(もうりもとなり)の三男で、豊臣秀吉の五大老のひとりです。

関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍についた小早川秀秋は、木下家から豊臣秀吉が養子として迎えていた人物で、後に隆景の養子となりました。

興臨院

大徳寺境内の中心付近に建つ興臨院は、天正年間(1573-1592年)に前田利家が再建しています。

興臨院

興臨院

前田利家は、織田信長に仕えていましたが、本能寺の変で信長が亡くなると豊臣秀吉に仕え、五大老のひとりとなりました。

利家は、又左衛門とも呼ばれており、槍の使い手だったことから、「槍の又左」の異名を持っていました。

三玄院

三玄院は、天正17年(1589年)に浅野幸長(あさのよしなが)、石田三成、森忠正が創建しました。

三玄院

三玄院

石田三成は、豊臣秀吉に仕えた武将で、関ヶ原の戦いで西軍を率いたことで知られていますね。

浅野幸長は、浅野長政の子です。

森忠正は、本能寺の変で織田信長とともに亡くなった森蘭丸の弟です。

その他の戦国武将と関係がある塔頭

以上が大徳寺の中で戦国武将と関係がある主な塔頭です。

他にもいくつか戦国武将と関係がある塔頭がありますので、簡単に紹介しておきます。

聚光院

聚光院は、大徳寺境内の北にあり、三好義継が父の長慶の菩提を弔うために建立しました。

義嗣は、松永久秀とともに足利義輝を暗殺したことで知られています。

総見院

総見院は、聚光院の西側に建っています。

天正10年に豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために建立したものです。

玉林院

玉林院は、大徳寺の西に建っており、片桐且元(かたぎりかつもと)によって再建されています。

片桐且元は、秀吉の死後、豊臣秀頼を補佐していましたが、徳川家康と内通していると疑われ、淀殿から大坂城を追い出されます。後に且元は家康に味方しました。

龍光院

龍光院は、玉林院の南に建っています。

慶長11年(1606年)に黒田長政が父の如水(じょすい)の菩提を弔うために建立しました。

如水は、豊臣秀吉の天下統一に貢献した軍師として知られており、長政は関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献したことで知られています。

戦国時代に興味がある方は、この記事で紹介した大徳寺境内にあるお寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

多くのお寺が非公開ですが、公開しているお寺もありますよ。