延暦13年(794年)に桓武天皇が都を京都に遷し、平安京が誕生しました。
桓武天皇が京都を都に選んだのは、四神相応の地だったからで、その都市計画は唐の長安を参考にしたことはよく知られています。
ところで、長安をモデルにした平安京なのに京都に行くことをなぜ上洛と言うのでしょうか。
長安のような都なら、「上長」とか「上安」とか言えば良いのに不思議ですよね。
大内裏と京域
平安京は、現在の北野天満宮の少し南東に大内裏(だいだいり)がありました。
そして、大内裏がある宮域の東側を左京、西側を右京とする京域がありました。
ちなみに現在の京都御所は、平安京の左京の北東角に位置しています。
京都御所が京都の中心のように思ってしまいますが、平安京の端っこになるんですね。
ちなみに京都御所が現在地に定まったのは、鎌倉時代後期のことです。
一方、右京の北西角は、現在の妙心寺がある辺りです。
そして、平安京の南の端は東寺です。
東寺は、平安時代から現在まで同じ場所に建っています。
平安京ができてから、ずっと東寺がこの場所に建っているのだと思うと感慨深いものがありますね。
左京を洛陽城と称していた
平安京は、唐の長安を参考にしたと述べましたが、長安にも劣らない立派な副都だった洛陽もまた参考にしていました。
そのため、京域の左京を洛陽城、右京を長安城と称するようになります。
さて、平安時代の平安京ですが、左京も右京も同じように発展していったわけではありませんでした。
以前に紹介した『京都「地理・地名・地図」の謎』によると、右京は、もともと低地で沼や湿地が多く、人が住むのに適した土地ではなかったため、平安時代も中ごろになると次第に衰退しはじめ、一方の左京には、貴族の邸宅が建ち並び発展を続けていったとのこと。
こうなると、京都の別称も、長安ではなく洛陽と言われるようになります。
やがて、京都は、洛都や京洛と呼ばれるようになり、「洛」は「京中」を意味する言葉として定着し、将軍が京都に上ることを上洛や入洛(じゅらく/にゅうらく)と言うようになりました。
現在の京都御所が、左京に遷ったのも、右京より発展していたからなのでしょうね。
上洛に似た言葉に上京がありますが、こちらは、東京に向かうこととして使われています。
上京は京都に向かうことを意味する言葉のように思いがちですが、上洛が昔から使われている言葉です。
でも、現在の京都は都ではないので、首都東京方面から京都に向かうのを上洛と言うのは変な感じがします。
都に行くことを「上る」とするのなら、東京から京都に行くのは「下る」になるので、下洛と表現した方が正しい気がしますが、そのような言葉が使われることはないですね。