5月下旬に京都府八幡市の松花堂庭園を拝観した後、近くの八角堂に立ち寄りました。
八角堂は、以前は建物がボロボロだったのですが、近年、修復されてきれいな姿になっています。
あまり知られていないお堂ですが、歴史のある建物なので、松花堂に訪れた際は、八角堂にも足を延ばしたいところです。
石清水八幡宮の境内にあった八角堂
八角堂には、京阪バス停「大芝・松花堂前」で下車して北に5分ほど歩くと到着します。
入り口は、民家が建ち並ぶ場所にあるので、バス通りからはわかりにくいですが、小高い丘を目指して歩けばたどり着きます。
入り口には、「西車塚跡 国宝乾漆阿弥陀像 同横川元三大師像 八角院」と刻まれた石碑が置かれています。
入り口の奥に境内へ続く石段があります。
その近くに説明書があったので読んでみることに。
平成24年(2012年)に八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が国指定史跡になった際、かつて石清水八幡宮の境内にあった八角堂も、その境内の一部として国指定史跡になりました。
八角堂は、石清水八幡宮にあった仏堂の中で唯一残るものであり、神仏習合の官寺を理解する上で重要であることが、国指定史跡になった理由です。
石段を丘の上に向かって進みます。
そして、頂上に到着すると、正面に八角堂、その左に東屋が建っています。
説明書によると、八角堂の境内がある場所は、古墳時代に前方後円墳の西車塚古墳の後円部墳頂だったところだそうです。
入り口の石碑に「西車塚跡」と刻まれていた理由がわかりますね。
八角堂は、本尊が阿弥陀如来で、石清水八幡宮検校(けんぎょう)の善法寺祐清(ぜんぽうじゆうせい)が、建保年間(1213-1219年)に男山山頂の石清水八幡宮境内西谷に建立しました。
その後、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼により再建されますが、寛文年間(1661-1673年)に破損転倒していたため、元禄11年(1698年)に善法寺央清(ぜんぽうじおうせい)の勧進により再興されました。
明治3年(1870年)に神仏分離により石清水八幡宮境内から仏堂等が撤去された際、正法寺の前住職であった志水円阿(しみずえんあ)が八角堂と元三大師堂を仏像とともに譲り受け、現在地に移築します。
その際、八角堂の東に庫裡(くり)、その南に茶所を設け、八角院と称されました。
入り口の石碑に「八角院」と刻まれていた意味もわかりましたね。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は、大正6年(1917年)に古社寺保存法により国宝となり、昭和25年(1950年)には文化財保護法により重要文化財に指定されたとのこと。
そして、平成10年に京都国立博物館に寄託され、平成20年に正法寺の境内に移されました。
私は、以前に正法寺の特別公開の時にこの阿弥陀如来坐像を鑑賞しています。
明治時代に整備された境内でしたが、昭和50年代に八角堂を除いて撤去され、新たに東屋が建てられ現在にいたっています。
朱色が鮮やかな八角堂
八角堂を1周してみましょう。
扉の右側には、「母泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地(もねのあじさわびめのみことおはかさんこうち)」と刻まれた石柱が立っています。
母泥之阿治佐波毘賣命が、どのような人物かは知りません。
古墳時代の人のようではあります。
なお、この石柱については、以下のウェブサイトに建立者についての解説が載っていますので、ご覧になってください。
上の石柱の足元には大きな石が雑然と置かれており、その中に「車塚」と刻まれた石碑もありました。
八角堂を1周して東屋の前にやってきました。
東屋付近から八角堂を眺めます。
以前はボロボロで、台風が来たら崩れるのではないかと思うほど老朽化していましたが、今は朱色が鮮やかで、建立されたばかりのような姿をしています。
夏になると、ユリが飾られますが、まだ5月下旬ということもあり、この日はユリを見ることはできませんでした。
でも、足元では、ムラサキカタバミがたくさん咲いていましたよ。
ニワゼキショウもありました。
ニワゼキショウは、小さな花なので、気づかずに踏みつぶしてしまいそうになります。
八角堂を一通り見終えたので、そろそろ境内から出ることに。
石段の近くには、「古く八幡宮」と刻まれた石碑も立っていましたよ。
八角堂は、訪れる人が少ないところですが、歴史的に興味深い建物なので、松花堂を拝観した後には、ぜひ立ち寄ってください。
なお、八角堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。