京都市上京区にある京都御所は、元弘元年(1331年)に光厳天皇(こうごんてんのう)が即位して以降、天皇の住いである内裏(だいり)となりました。
かつて、平安京の大内裏は、現在の京都御所よりもっと西にあり、二条城が建つ辺りでした。
その大内裏の中に内裏があったのですが、火災に遭うたびに貴族の邸宅を仮の内裏として一時的に利用していました。
この仮の内裏を里内裏(さとだいり)と言います。
そして、元弘元年に土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を里内裏として以来、明治2年(1869年)まで御所として使われ続けました。
最初の里内裏
京都御苑の西側に京都ガーデンパレスというホテルが建っています。
この地は、10世紀頃に村上天皇の皇子である具平親王(ともひらしんのう)の邸宅があった場所です。
その後、12世紀になると曾孫の源師時(みなもとのもろとき)の邸宅・土御門第となり、白河天皇の近親であった藤原顕隆(ふじわらのあきたか)が買得して内裏に模した最初の里内裏を造営しました。
京都ガーデンパレスの入り口付近には、この地が最初の里内裏となった土御門第があったことを示す石碑があります。
石碑近くの説明書によると、土御門第は、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の3代24年の間、天皇の御所として使われていたそうです。
しかし、この里内裏は、保元の乱(1156年)によって廃絶しました。
鎌倉時代以降は、清浄華院(しょうじょうけいん)がこの地に移ってきました。
しかし、清浄華院は、安土桃山時代に豊臣秀吉の命により寺町に移されます。
今も、京都ガーデンパレスから京都御苑を挟んだ東側の寺町通沿いに清浄華院は建っています。
その後は、金色塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並びましたが、豊臣秀吉の伏見城築城に際して、それらは伏見に移されました。
江戸時代に入ると、寛永12年(1636年)に水戸藩がこの地に藩邸を営みます。
今も京都ガーデンパレスから南に歩いた場所に水戸藩邸跡を示す石碑があります。
護王神社の北側ですね。
しかし、この水戸藩邸も、元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変の戦火によって全焼します。
烏丸通を挟んだ東向かいに蛤御門がありますから、この付近は激戦地だったと想像できます。
明治以降は、所有者が転々と変わり、平成8年(1996年)にかつて土御門烏丸邸があった土地の一部が京都ガーデンパレスとなりました。
京都ガーデンパレスの入り口付近に土御門内裏跡を示す石碑があるので、京都旅行の宿泊で当ホテルに泊まる方は、この地が鳥羽、崇徳、近衛の3天皇の里内裏であったことを知ることでしょう。