9月上旬。
京都市下京区にある輪違屋(わちがいや)を訪れました。
輪違屋は、江戸時代の花街であった島原に残る置屋です。
現在も営業をしており、通常は拝観できないのですが、9月30日まで京の夏の旅の特別公開が行われています。
主の間
輪違屋には、JR丹波口駅から南東に約7分歩くと到着します。
入り口には、京の夏の旅の特別公開が行われていることを示す案内が出ていました。
中に入り、受付で拝観料600円を支払います。
そして、玄関で靴を脱ぎ、1階の主の間に向かいました。
主の間の天井下にかかっている額には、「養花楼」と書かれています。
島原の正式名称は、西新屋敷といいます。
元は六条三筋町にあった花街なのですが、寛永18年(1641年)に現在地に移転しました。
その時の移転が、わずか1年で行われ、あまりに忙しなかったことから、5年前に九州で起こった島原の乱のようだということで島原と名付けられたと伝わっています。
また、当初は東側に入り口が1つしかなく、その造りが島原城に似ていたから島原と呼ばれるようになったとも言われています。
輪違屋は、元禄年間(1688-1704年)の創業で、当初は養花楼と名乗っていました。
養花楼は、置屋と呼ばれる営業をしていました。
置屋は、芸妓や太夫を抱えており、依頼があると揚屋に芸妓や太夫を派遣する業務を行っていました。
ちなみに太夫は、歌舞音曲、花、茶、和歌、俳諧など多芸で豊かな教養を持ち合わせた傾城(けいせい)の最高位のことです。
襖には、何枚も紙が貼られています。
この紙には、芸妓の歌が書かれています。
こちらは掛け軸。
掛け軸にも歌が書かれた紙が貼られており、こちらは、江戸時代に吉野太夫が書いたものです。
吉野太夫は、関白近衛信尋(このえのぶひろ)と豪商の灰屋紹益(はいやじょうえき)が争い、最終的に灰屋紹益が身請けをしたことで有名ですね。
北区の鷹峯に建つ常照寺には吉野太夫が寄進したと伝わる赤門と彼女のお墓があります。
他に有名な太夫には、幕末から明治時代の桜木太夫もいます。
桜木太夫は伊藤博文と馴染みだったのですが、ハルビンで伊藤博文が暗殺されると、きっぱりと身を引いたそうです。
主の間の隅に置かれている屏風。
ここにも書が貼られています。
この書の作者は、新撰組局長の近藤勇(こんどういさみ)で、その名もしっかりと書かれていますよ。
新撰組隊士たちは、よく島原に遊びに来ており、隊士たちの慰労のための宴会も行われることがありました。
養花楼は、明治時代に入ってから輪違屋と名を変えています。
花を養うという文字が不適切だということで改名をさせられたのだとか。
現在の建物は、安政4年(1857年)の再建で、その後、増改築が行われて明治4年(1871年)に現在の姿になりました。
また、輪違屋は、明治以降、お茶屋も兼業するようになりました。
傘の間、紅葉の間、太夫の間
1階の拝観を終え、階段を上り2階へ。
2階には、傘の間、紅葉の間、太夫の間があります。
2階の写真撮影は禁止だったので、ここからは文章のみとなります。
傘の間には、銀箔の無地に道中傘の紙を貼った襖があります。
床の間に飾られている掛け軸は、桂小五郎筆とのこと。
輪違屋には、幕末に多くの人が訪れ、書を残していったのですが、あまりの多さに邪魔になったため捨ててしまったそうです。
今も残っていれば、大変な価値になっていたのではないでしょうか。
紅葉の間には、その名のとおり、壁に本物の紅葉が貼ってあります。
紅葉は、顔料で着色しているので、きらきらと光って見えましたよ。
太夫の間は、太夫の控えの部屋で、太夫の打掛がかかっていました。
2階の部屋も全て見たので、1階に戻り玄関から外に出ることに。
これまで輪違屋の中を見たことはありませんでした。
拝観を終えた後、江戸時代の文化が、とても身近なものに思えましたよ。
なお、輪違屋の詳細については以下のページを参考にしてみてください。