昭和30年代頃まで、日本人の尊敬する英雄の上位に入っていたのが乃木希典(のぎまれすけ)です。
乃木希典は、明治時代の軍人。日清戦争や日露戦争で活躍した人物で、日本の勝利に大きく貢献しました。
でも、最近では、乃木将軍の評価は以前よりも高くありません。
むしろ、愚将として評価されており、その名前を知らない人の方が圧倒的に多いですね。
昔は、西郷隆盛と並び、その名を知らない人はほとんどいないほどの有名人だったのですが、なぜ、ここまで知名度が低くなってしまったのでしょうか。
その理由には、やはり、近年、乃木将軍が愚将だと評価されるようになったことと関係があるように思います。
愚将の理由その1.西南戦争で軍旗を喪失
乃木将軍が、愚将とされる理由のひとつに明治10年(1877年)に起こった西南戦争での軍旗喪失が挙げられます。
西南戦争は、西郷隆盛が九州で起こした反乱で、国内最後の内戦となった戦争です。
西郷隆盛の軍が、鹿児島を出発し政府軍がたてこもる熊本城の攻撃を始めた頃、乃木将軍は、歩兵第十四連隊を率いて戦場に到着しました。
しかし、乃木将軍が受け持った戦線は、戦闘が激しく一時撤退を余儀なくされます。
この時、乃木将軍は、明治天皇から授かった軍旗を敵に奪われるという失態をしてしまいました。
当時の軍人にとって、軍旗を奪われるということは、恥ずべきこと。
この事件が、後に乃木将軍を愚将と評価する理由になったことは言うまでもありません。
また、西南戦争後、乃木将軍は、この時の失態をいつまでも悔やみ続け、来る日も来る日も酒ばかりを飲んで過ごしていたと言われています。
過去の失敗をいつまでもくよくよしている姿を想像すると、とても名将とは思えませんね。
愚将の理由その2.日露戦争で数多くの戦死者を出す
乃木将軍を愚将と評価する最大の理由が日露戦争での彼の采配です。
この時、乃木将軍は第三軍司令官としてロシア軍がたてこもる旅順要塞の攻撃を任されます。
旅順要塞は、強固な要塞で、そう簡単には攻略することができません。
しっかりと作戦を練って、要塞の最も弱い部分に兵力と火力を集中するのが、正攻法と言えます。
しかし、乃木将軍がとったのは、肉弾戦、つまり兵士たちを旅順要塞に真っ向から突撃させる作戦です。
当然、誰が考えても無謀と思えるこの作戦は失敗し、乃木将軍の息子も含め数多くの兵士があっという間に戦死してしまいました。
旅順攻略にあたっては、海軍から再三にわたり、要塞の近くにある203高地という丘を占領し、そこから旅順港に停泊しているロシアの艦隊を砲撃して欲しいという嘆願がありました。
日本海軍は、ロシアの北方からアフリカを迂回して日本海へと向かっているバルチック艦隊との決戦を控え、旅順に停泊しているロシアの艦隊が残っていると、海戦が不利になると考えたからです。
また、203高地を占領すれば、旅順要塞の攻略も楽になることが予想できました。
しかし、乃木将軍は、この海軍からの要請を無視し、肉弾戦を繰り返します。
当然、犠牲者が増えるだけで、全く攻略できそうにありません。
この状況に業を煮やした児玉源太郎が乃木将軍から指揮権を取り上げ、戦力を203高地に向けて、これを占領し、そこから旅順に停泊するロシア艦隊を砲撃して壊滅させることに成功します。
そして、児玉源太郎の的確な指揮もあり、旅順要塞を攻略することができました。
もしも、児玉源太郎が指揮しなければ、いつまでも旅順要塞を攻略することができず、日本はロシアに負けていたかもしれません。
乃木将軍がかたくなに海軍からの要請を拒み続けなければ、犠牲が少なくて済んだかもしれないと考えると、やはり、愚将という評価を免れることはできないと言えるでしょう。
名将の理由その1.第2次長州征伐での活躍
乃木将軍を愚将とする理由の代表的なものは、上記2つです。
しかし、そもそも西南戦争で軍旗を喪失した乃木将軍が、その後、出世して日露戦争で第三軍の司令官となることが、不思議です。
そのような失態をした乃木将軍を出世させた理由は、やはり名将としての当時の評価があったからです。
乃木将軍は、長州藩の支藩の長府藩出身で、幕末の第2次長州征伐の時、数十名の兵を率いて幕府軍と戦い、小倉城一番乗りを果たします。
これが、乃木将軍の軍人としての評価を高め、西南戦争では、歩兵第十四連隊長として従軍することになるわけです。
西南戦争で軍旗を喪失した乃木将軍は、その失態の責任をとるため、あえて敵弾に身をさらすといった行動をします。
しかし、これを知った明治天皇は、乃木将軍を死なせてはならないと言い、彼を後方に下げるように命じました。
明治天皇は、乃木将軍の責任感の強さにいたく感心されたわけですね。
名将とする理由その2.日清戦争での旅順攻略
西南戦争後、酒ばかりを飲んで過ごしていた乃木将軍でしたが、しばらく後、ドイツに留学します。
そして、帰国した乃木将軍は、留学前と変わり、酒を近づけず、常に軍服を着用する陸軍一の堅物に変貌していました。
これについて乃木将軍は深く語っていませんが、留学中に何かに気付いたことは言うまでもないでしょう。
この後、日清戦争が勃発。
乃木将軍は、歩兵第一旅団を率いて出征、その所属する第二軍第一師団が、わずか1日で旅順要塞を攻略するという大活躍をします。
その後も清国軍との戦いで目覚ましい活躍をし、凱旋帰国した時には、「乃木将軍の右に出るものなし」と言われるほど、高い評価を得ました。
名将とする理由その3.敵の3分の1の戦力でロシア軍に勝つ
日清戦争後、乃木将軍は、台湾総督となりましたが、すぐに辞任し帰国します。
帰国後は、第十一師団長となります。
乃木将軍は、兵士たちの訓練の際、炎天下の中、ずっと立ち続けて兵士たちを見つめ、昼休みに兵士たちが弁当を食べ始めると、彼も食事をするというように、訓練中は、兵士たちと苦しみを共有しようとしました。
これに感激した兵士たちは、後に日露戦争で勇敢に戦ったと言われています。
その日露戦争で、旅順要塞の攻略を担当した乃木将軍は、ロシア軍とほぼ同程度の兵力で戦うこととなりました。
攻める方は守る方の3倍の戦力が必要と言われているので、乃木将軍がかなり不利な状況で、戦わなければならなかったことは、容易に想像できます。
旅順要塞を攻略するためには、強力な火力が必要でしたが、それを与えられず、肉弾戦で乗り切るように要請されます。
しかも、ロシアのスパイによって日本側の暗号が解読されており、攻撃の情報が筒抜けとなっていました。
こういった不利な状況でも、勝機を見つけるために乃木将軍は何とかしようとします。
そんな中、海軍から203高地を攻略するようにという要請が乃木将軍の許へ。
旅順要塞から203高地まで軍を動かすのは、陸軍としては、余計に手間がかかることなので、これを拒否します。
そうすると海軍は、マスコミを使って乃木将軍のネガティブキャンペーンを行い、世論を巻き込んで203高地を先に攻略すべきだと主張します。
旅順のロシア艦隊が残っている状態で、バルチック艦隊が日本近海まで来ると、海戦が不利になるからです。
このネガティブキャンペーンにより乃木将軍は児玉源太郎に指揮権を渡します。
そして、日本軍が203高地を占領し、旅順港のロシア艦隊に大きな打撃を与えることに成功しました。
しかし、203高地を占領した後も、旅順要塞は依然として頑強な守りを続けます。
最初から不利な状況で戦わされていた乃木将軍でしたが、遂に旅順要塞を攻略。
乃木将軍の旅順攻略を世界中が奇跡として報じたとされているので、この時の乃木将軍の采配は名将と呼ぶに値するものだったのでしょう。
ちなみにバルチック艦隊が日本近海に姿を現したのは、旅順要塞攻略から5ヶ月後のことでした。
海軍の203高地攻略の要請の受け入れは、旅順要塞攻略後でも十分に時間的余裕があったことになります。
もしも、乃木将軍が旅順要塞だけに集中していれば、もっと損害は少なくて済んだ可能性がありますね。
明治天皇陵の近くに建つ乃木神社
その後の乃木将軍は、明治天皇から学習院に任じられます。
そして、明治天皇が崩御した1912年に乃木将軍は、その後を追って殉死しました。
明治天皇陵は、京都市伏見区にあります。
その近くには、乃木将軍を祀る乃木神社が建っています。
下の写真に写っているのは、学習院時代の乃木将軍の像です。
境内には、長府にあった乃木旧邸も展示されています。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、乃木将軍が愚将として描かれています。
この小説は、多くの人に読まれているので、現在の乃木将軍の評価が愚将となっている原因を作りだしたと言えます。
これに対して、中西輝政氏の著書「日本人として知っておきたい近代史」では、乃木将軍愚将説に待ったをかけています。
乃木将軍は、昭和30年代頃まで英雄視されていたわけですから、やはり、明治時代の乃木将軍は名将だったのかもしれませんね。