醍醐の花見を描いたがために入牢となった喜多川歌麿

慶長3年(1598年)に催された醍醐の花見は、豊臣秀吉の最後の派手な行事となりました。

正室の北政所や側室たちを連れ、総勢1300人で花見をしたということですから、太閤秀吉の栄華がよくわかる話です。

また、秀吉は、応仁の乱(1467年)で、ほとんどの建物を失った醍醐寺を花見を機に再興し、世界遺産に登録されるほどのお寺にしています。

だから、醍醐寺にとって秀吉は大恩人なのですが、一方で、彼が催した醍醐の花見がきっかけとなって牢屋に入れられた人物もいました。

その人物は、江戸時代の絵師喜多川歌麿です。

松平定信の風紀粛清

喜多川歌麿が牢屋に入れられたのは、文化元年(1804年)5月のことです。

醍醐の花見から200年以上も経っていますね。

この頃、江戸幕府は、松平定信が老中となり寛政の改革を推し進めていました。

倹約によって幕府財政を立て直すのが寛政の改革の特徴で、それとともに風紀粛清も行われました。

喜多川歌麿は美人画を描いていましたから、幕府に目をつけられるのは当たり前。

彼が美人画を描くと幕府が禁令を発し、その禁令に引っかからないように工夫して描いても、また幕府にとがめられるということを繰り返していました。

そんな状況が続く中、喜多川歌麿は、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材とした『太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)』大判錦三枚続を完成させます。

これが幕府の怒りを買い、歌麿は入牢3日、手鎖50日、過料15貫の刑を受けます。

その後、病気となった歌麿は、2年後に亡くなっています。

徳川家斉を諫めるためか

『太閤五妻洛東遊観之図』は、文化庁のウェブサイトの以下のページで見ることができます。

あまり、風紀を乱す作品とは思えませんが、以前に紹介した書籍『タイムトラベル もうひとつの京都』では、当時の将軍徳川家斉が、歌麿処罰と関係があるのではないかと述べられています。

徳川家斉は、側室40人を持ち、子供が55人もいました。

風紀粛清に力を入れる松平定信は、将軍家斉に対しても、好色を改めて欲しいとの願いがあったのではないかということです。

豊臣秀吉が、多くの側室たちと優雅に花見をしている様子を描いた『太閤五妻洛東遊観之図』は、家斉の生活と重なるものがあります。

だから、同図を描いた喜多川歌麿を罰することで、家斉を諫めようとしたのではないかと。

江戸時代に豊臣家が楽しく花見をしているのを描くこと自体が問題だった可能性もありますね。

喜多川歌麿が処罰されたからと言って、醍醐寺までは処罰されていないようです。

醍醐寺は、豊臣家の家紋と同じ五七の桐を寺紋としており、唐門にそれが描かれています。

唐門

唐門

いつから唐門に五七の桐が描かれているのか知りませんが、江戸時代だったら幕府から咎められそうな気がするのですが。

醍醐寺の桜

春の醍醐寺の写真も掲載しておきます。

桜と金堂

桜と金堂

どの桜も背が高くて立派です。

枝垂れ桜も、背が高いものばかりで、垂れ下がった枝が風になびくと、ひらひら花びらが舞います。

金堂脇の枝垂れ桜

金堂脇の枝垂れ桜

桜にばかり目が行きますが、世界遺産に登録されているだけあって、建物も大きく立派なものが多いですよ。

観音堂と桜

観音堂と桜

内部を拝観できる建物もありますから参拝時には見ておきたいですね。

なお、醍醐寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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