京都は、長い歴史の中で、数々の芸術家を輩出してきた地です。
江戸時代中期に活躍した画家の尾形光琳もまた京都の生まれです。
その尾形光琳の菩提所は、京都市上京区の妙顕寺の東にあった興善院で、現在は泉妙院というお寺が建っています。
光琳菩提所を示す石碑
泉妙院には、地下鉄の鞍馬口駅から南西に7分ほど歩くと到着します。
その門前には、「尾形光琳 尾形一族 乾山 菩提所」と刻まれた石碑が立っています。
石碑の近くにある説明書を読んでみましょう。
尾形光琳は、江戸時代元禄(1688-1704年)の頃の代表的画家で、京都の呉服商雁金屋で生まれました。
亡くなったのは享保元年(1716年)6月2日で、59歳でした。
遺体は、尾形家の菩提寺である興善院に葬られます。
尾形光琳は、嫡子を宝永5年(1708年)に小西家に養嗣子に出したため、血脈は小西家へ続き、尾形一族より代々の住職を出していました。
しかし、興善院は無住となり、墓のみを残して取り払われ、本行院の管下に入ります。
しかし、天明の大火(1788年)によって本行院は焼失し、加えて小西家も困窮したため、文化2年(1805年)5月3日に尾形光琳の墓石は総墓所へ移されたそうです。
尾形光琳没後100年に酒井抱一が尾形光琳の墓石を見出せず、本行院跡に碑を建立しました。
その後、文政3年(1820年)に本行院が泉妙院と合併し、興善院跡に再建され、本行院跡の碑を泉妙院が管理してきました。
小西家は、縁檀として尾形家を守り、明治41年(1908年)6月に三越呉服本店(現在の株式会社三越伊勢丹ホールディングス)が小西得太郎とともに施主となり、昭和22年(1947年)頃、小西家が絶えた後も毎年6月2日に光琳法要を営んでいます。
昭和34年に文化財審議会、琳派研究家は、総墓所へ移された尾形光琳の墓石を元の所へ戻すことを提案。
同37年に正門が妙顕寺によって南側に移転されたのを機に埋葬地泉妙院に戻し、現在にいたっています。
泉妙院には、小西家からの寄贈品、尾形光琳及び一族の作品、文献などが保存され、位牌も祀られています。
泉妙院の隣の妙顕寺には、尾形光琳が設計した庭がありましたが、天明の大火で焼失しています。
でも、尾形光琳が描いた松竹梅図を元に光琳曲水の庭が設計され、現在も残っています。
また、京都市左京区の下鴨神社には、尾形光琳が描いた紅白梅図のモデルとなったとされる光琳の梅が植えられており、早春に赤色の花をたくさん咲かせます。
泉妙院の門前に立つ石碑は、あまり目立たないため素通りしそうになります。
江戸時代を代表する画家の菩提所を示す石碑にしては質素ですね。