京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。
今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。
四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。
その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。
若き日の円山応挙の住まい
円山応挙は、江戸時代を代表する画家で、享保18年(1733年)に丹波国桑田郡穴生村(あのおむら)の農家に生まれました。
その円山応挙が、若き日に住んでいたのが、四条烏丸の少し東の四条通堺町東入るの辺りです。
今は、下の写真に写っている「圓山應挙宅址」と刻まれた石碑が立っています。
近くに説明書が設置されているので読んでみましょう。
円山応挙は、幼少より画を好み、17歳のとき、京都に出て狩野派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)の門に入り、画法を学びました。
写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得、幾多の名作を世にあらわします。
四条通堺町東入るに居を構えたのは、近くの四条道場金連寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた関係からではないかと考えられています。
彼の画風は、当時の京都画壇を風靡し、門人千名といわれ、呉春(ごしゅん)の四条派と京都画壇を二分する円山派をなします。
寛政5年(1793年)に病気にかかりましたが、間もなく回復。
しかし、同7年7月17日に63歳で亡くなりました。
雨竹風竹図屏風は圓光寺で見られる
生前に多数の作品を描いた円山応挙ですが、京都では、彼の作品を鑑賞できるお寺があります。
私が見たことがあるのは、左京区の圓光寺に保存されている雨竹風竹図屏風です。
圓光寺の参拝には、拝観料が必要ですが、参拝者は雨竹風竹図屏風を見ることができますよ。
円山応挙は、圓光寺の竹林をよく訪れており、その風景を描いたのが雨竹風竹図屏風だそうです。
今も、圓光寺には竹林があり、応挙竹林と呼ばれています。
他にも、右京区の仁和寺や上京区の相国寺などにも、円山応挙の作品が保存されています。
円山応挙の作品は、圓光寺以外でも見たことがあるのですが、どこで見たのか思い出せません。
とりあえず、京都の寺院を拝観していると、どこかで巡り合えると思います。
確実に円山応挙の作品を鑑賞したいなら、圓光寺に参拝すると良いでしょう。