朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。

しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。

そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。

朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西本願寺近くにあった本圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ本能寺が宿所とされました。

徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀

朝鮮通信使の9回目の来日は、享保4年(1719年)のことです。

本能寺の山門前に設置されていた「朝鮮通信使ゆかりの地」の説明書によれば、この時の来日の目的は、徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀することだったとのこと。

大本山本能寺

大本山本能寺

来日した人数は、475名で、そのうち129名が大坂どまりとなり、346名が護衛の対馬藩主などとともに同年9月12日に淀から鳥羽実相寺を経て京都に入りました。

そして、本能寺に一夜宿泊しました。

本堂には、朝鮮通信使の正使らが泊まりました。

本堂

本堂

上官は塔頭(たっちゅう)の蓮承院、通訳官は吉祥院、五山僧などが本行院を利用したそうです。

本行院

本行院

本能寺の両山歴譜(りょうざんれきふ)とう記録には、貫首以下の一山の僧侶たちは、一時他寺などへ立ち退いたと記されています。

また、この夜は、京都所司代の松平忠周(まつだいらたたちか)らが挨拶に来て、将軍の令により饗宴の席が設けられたそうです。

朝鮮通信使の随員であった製述官の申維翰(いんゆはん)は、見聞記「海游録(かいゆうろく)」で、本能寺を「壮麗なことは比すべきものがない」と述べています。

江戸からの帰路も、朝鮮通信使の一行は、11月1日から3日まで本能寺に滞在しました。

護衛の対馬藩主の一行やその他の護衛の日本人たちは、本能寺の周辺の寺院や民家にも分宿したそうです。

京都の歴史を歩く(広告リンク)」という書籍によれば、朝鮮通信使の来日の際、一行を一目見ようと多くの見物人が集まったことから、8回目の来日の時には、京都町奉行所から男女僧尼が混ざりあって見物することのないよう簾や幕・屏風・障子等で隔てるようにとの指示があり、酒肴や菓子を並べたり酒宴を行ったりするなどの無礼なふるまいを禁止したということです。

9回目の来日の時にも、同様の町触が出され、さらに金銀の屏風で空間を囲み見物することを禁止したそうです。

朝鮮通信使の宿所は、主に大徳寺や本圀寺でしたが、本能寺も1回だけ宿所とされました。

これらの寺院は、江戸時代に日朝の友好関係を保つために大切な役割を果たしてきたんですね。

なお、本能寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

宿泊