明治維新の原動力となったのは、イギリスと清国との間に起こったアヘン戦争でした。
アヘン戦争ではイギリスが勝利し、清国はイギリスの言いなりとなります。
このままでは、日本もイギリスなどの西洋諸国に侵略されてしまうという危機感が国内で沸騰し、外国人を打ち払うべきだという主張と開国して近代化すべきだという主張がぶつかり合い、やがて明治維新を迎えました。
日中の協力団結を主張した荒尾精
明治に入ってからも、西洋諸国のアジア侵略の危機は続きます。
そのような中、西洋列強の中国侵略を阻止し、アジア保全を唱えたのが荒尾精(あらおせい)でした。
彼は、日中の協力団結を主張し、特に通商貿易の振興による日中の繁栄を唱導しました。
さらにその実現のために必要な人材養成を目的に根津一とともに上海に日清貿易研究所を設立します。
この2人の思想と協力が近衛篤麿を盟主とする東亜同文会結成と東亜同文院創立を実現化しました。
また、荒尾精は、日清戦争中に「対清意見」や「対清弁妄」を著し、戦後の清国の領土割譲を日本は要求すべきではないと主張したのですが、当時の日本では彼の言葉は聞き入れられませんでした。
荒尾精は、日中協力やアジア保全の大志を抱きながら、明治29年(1896年)に台湾でペストにかかり、その生涯を終えました。
荒尾精の石碑
荒尾精の死を知った近衛篤麿は、いたく惜しみ、生前に対清意見、対清弁妄を著した寓居近くに追悼碑の建立を発起し、その業績をたたえる追慕の碑文を撰しました。
現在も近衛篤麿が建立を発起した「東方斎・荒尾精先生の碑」が、京都市左京区の熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)の近くに残っています。
碑文は汚れてよくわかりませんが、荒尾精の生前の功績を讃えた内容なのでしょう。
荒尾精の石碑は、哲学の道の南の入り口の若王子橋の近くに建っています。
この辺りは、春に多くの観光客の方が訪れるのですが、荒尾精の石碑に気づく人は少ないです。
視界には入っているのでしょうが、意識することなく素通りしているようですね。
もしも、荒尾精の言葉に当時の日本政府が耳を傾けていれば、その後の日中関係は違ったものになっていたかもしれません。
明治維新で近代化した日本は、ただ西洋諸国の真似をしただけで、荒尾精のようなアジアの保全という視点はなかったのでしょう。