京都市北区と右京区を結ぶ「きぬかけの路(みち)」は、初めて京都に旅行や観光で訪れる方におすすめの道です。
その理由は、金閣寺、龍安寺(りょうあんじ)、仁和寺(にんなじ)の3つの世界遺産が近接しているからです。
金閣寺からスタートして龍安寺、仁和寺と徒歩で移動きますから、1日で3ヶ所すべての拝観が可能です。
きぬかけの路の石碑
きぬかけの路は、きぬかけの道とも表記することがあります。
金閣寺、龍安寺、仁和寺を結ぶ観光道路が、きぬかけの路と呼ばれるようになったのは、平成3年(1991年)からです。
命名は公募によってなされました。
その昔、宇多天皇が真夏の衣笠山に白絹をかけて雪景色を楽しんだとの故事から、衣笠山は「きぬかけ山」とも呼ばれるようになりました。
きぬかけの路の名は、きぬかけ山が由来なんですね。
語源を知ると、きぬかけの路の響きに風情を感じます。
金閣寺
きぬかけの路の東端に建つのが金閣寺です。
市バス停「金閣寺前」からすぐですね。
金閣寺が建つ地は、鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)が造営した山荘の北山第があった場所です。
平安時代から、この地は平安貴族たちの遊楽の地として好まれていましたが、やがて西園寺家が衰退すると北山第も荒廃します。
その荒廃した北山第を応永4年(1397年)に室町幕府3代将軍の足利義満が譲り受け、北山殿を造営しました。
北山殿の中心をなすのは金閣の愛称で親しまれる舎利殿(しゃりでん)です。
初層は寝殿造風の法水院、二層目は武家造の潮音洞(ちょうおんどう)、三層目は禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)。
金箔が貼られているのは二層目と三層目で、屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねた杮葺(こけらぶき)となっています。
舎利殿をこのような形にしたのは、足利義満に政治的な意図があったからだと言われていますね。
北山殿は義満の死後、子の義持が解体し、夢窓疎石を開山として禅寺に改められますが、金閣は残されました。
寺名は、義満の法号鹿苑院殿から2字をとって鹿苑寺(ろくおんじ)とされましたが、現在は金閣寺の通称で親しまれていますね。
なお、金閣寺の拝観料は400円です。
龍安寺
金閣寺からきぬかけの路を西に15分から20分ほど歩くと龍安寺に到着します。
龍安寺と言えば、方丈の前に広がる石庭が有名ですね。
七五三の庭や虎の子渡しの庭園と呼ばれる龍安寺の石庭は、作庭時期や作者が不詳で、創作意図もよくわかっていません。
金閣寺から、きぬかけの路を歩いて来た後ですから、休憩を兼ねて縁側に座り、時間をかけて石庭を鑑賞したいです。
また、境内には鏡容池と呼ばれる大きな池もあります。
周囲には多くのカエデが植えられているので初夏の新緑や秋の紅葉も美しいです。
春は桜苑の桜も見ておきたいですね。
なお、龍安寺の拝観料は500円です。
仁和寺
龍安寺から、きぬかけの路を西に10分ほど歩けば仁和寺に到着します。
きぬかけの路沿いの3つの世界遺産の中で、最も気品があるのが仁和寺だと思います。
仁和2年(886年)に光孝天皇の勅願によって伽藍の建立が開始されました。
しかし、翌年に光孝天皇が崩御し、その遺志をついだ宇多天皇が仁和4年に完成させ、空海の弟子の真然が導師となって落慶供養が営まれました。
宇多天皇は、醍醐天皇へ譲位した後、仁和寺で出家して第一世となります。
仁和寺は、宇多法皇が法務を行う僧坊が設けられたことから御室(おむろ)と尊称され、法皇の後、第二世に三条天皇第四皇子の師明親王(もろあきらしんのう)、第三世も白河天皇第三皇子の覚行親王が就任し、以後も明治維新まで皇族が入寺し、門跡寺院(もんぜきじいん)として最高位の格式を誇りました。
仁和寺の伽藍は、門跡寺院らしく雅です。
そして、仁和寺に訪れた際に見ておきたいのが御殿です。
御殿には、宸殿(しんでん)、白書院、黒書院などの建物が建っており、どれも気品があります。
また、宸殿の北側と南側の白砂が敷かれた庭園は、京都御所の景観に似ており、仁和寺がかつての御所であったことを思い起こさせてくれます。
仁和寺では、春に遅咲きの御室桜も見ることができます。
真っ白な花をたくさん咲かせる御室桜にも気品を感じますね。
なお、仁和寺は境内は無料ですが、御殿は拝観料500円が必要です。
また、春の桜の季節は、境内に入る場合も拝観料が必要になります。
旅行や観光で京都を訪れたいけども、どこに行ったらいいのかわからない方は、きぬかけの路沿いの3つの世界遺産を拝観することをおすすめします。