京都の地理一覧

四条堀川の雨庭

先日、四条堀川を歩いていると、交差点の南東角に雨庭(あめにわ)があるのに気づきました。 近年、京都市内では、左京区の妙伝寺近くや下京区のお東さん広場などで雨庭が造られています。 街角で、雨庭を偶然見つけると、こんなところにも京都らしさが演出されているんだなと感心しますね。

空也供養が語源と伝わる膏薬辻子

地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅から四条通を西に3分ほど歩き、新町通と西洞院通のちょうど真ん中くらいにやって来ると、南に向かって延びる細い道が現れます。 この細い道は、膏薬辻子(こうやくのずし)と呼ばれています。 何やら、打ち身や捻挫に効きそうに思える道ですが、それらの治療をしてくれる医療機関が密集しているとか、ドラッグストアが軒を連ねているとかいった意味で、その名が付いたのではありません。

上本能寺前町に立つ題目碑

京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。 その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。 その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。

鴨川は昔から現在の場所を流れていたのか?

京都市内の東を流れる鴨川は、そのほとりを地元の人が散歩やジョギングをしたり、旅行者や観光客が京都の景色を楽しむために歩いたりしています。 鴨川は、京阪電車の出町柳駅付近で、東の高野川と西の賀茂川が合流して鴨川となります。 賀茂大橋の中央に立ち、北を望むときれいな「Y」の形に賀茂川と高野川が合流しているのがわかりますね。 その鴨川ですが、かつては、今よりも西の堀川の辺りを流れていたという説があります。

風葬の地であった蓮台野に建つ上品蓮台寺と引接寺

京都市北区の船岡山の西に千本通があります。 千本通の名の由来は、卒塔婆が千本立てられたからだと伝えられています。 この地は、蓮台野と呼ばれ、平安時代には風葬が行われていたことから、卒塔婆がたくさん立てられていたのでしょう。 そして、千本通には、蓮台野墓地の墓守の寺として創建された上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)が今もあります。 また、上品蓮台寺の南には引接寺(いんじょうじ)というお寺も建ち、上品蓮台寺と深い関係があります。

平安京造営の起点となった船岡山

京都に平安京が造営されたのは、この地が四神相応の地だったことが理由として挙げられます。 四神とは、東を守る青龍、西を守る白虎、南を守る朱雀、北を守る玄武の神さまのことです。 そして、四神相応の地とは、東に川、西に道、南に湖、北に山がある土地を指し、これを京都に当てはめると東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池(おぐらいけ)、北に船岡山となります。 これら四神の中で、平安京造営の起点となったのは船岡山と考えられます。

七条大橋の矢車模様の高欄

京阪電車の七条駅の改札を出て地上に上がると、西側を鴨川が流れています。 そのため、七条通から西の京都駅に行くためには、鴨川に架かる七条大橋を渡る必要があります。 鴨川には、三条大橋や五条大橋など、多くの橋が架かっています。 三条大橋は、幾度か架け替えが行われていますが、歴史によく登場しており、鴨川に架かる橋の中では有名ですね。 一方、七条大橋も立派な橋なのですが、歴史に登場することが少ないです。 それもそのはず、七条大橋は、近代に架けられた橋なので、京都の長い歴史から見れば、つい最近登場した橋なのです。

手洗水町の名の由来となった御手洗井

京都には、変わった地名がいろいろあります。 そして、なぜ、このような名が付いているのかと不思議に思うような地名ほど、何か由来があるものです。 京都市中京区の手洗水町(てあらいみずちょう)も、変わった地名ですね。 もちろん、手洗水町にもその名の由来があります。

鞍馬山の木の根道

出町柳駅から叡山電車に乗車して終着駅の鞍馬駅まで行くと、鞍馬寺が建っています。 鞍馬寺はその名のとおり、鞍馬山に建立されたお寺です。 山頂の本殿金堂まで参拝するためには山道を登らないといけないので、体力に自信のない方だとお参りするのが厳しいですね。 でも、山内にはケーブルカーがあるので、それに乗車すれば楽に山頂に行けます。 山頂の本殿金堂にお参りを済ませた後、まだ、元気が残っていれば、木の根道になっている鞍馬山を散策するのもおすすめです。

五條天神宮の境内を南北に貫いた通り

京都市下京区の四条烏丸から南西に少し歩いたあたりに五條天神宮という神社が建っています。 五條天神宮は、義経記(ぎけいき)によると、牛若丸と弁慶が出会った神社ということになっているので、歴史好きの方ならご存知かもしれませんね。 現在は、周囲をビルに囲まれて境内は狭くなっていますが、昔は広い寺域を有していたそうです。 でも、その広い敷地が都市開発に邪魔になったことから、境内を南北に貫く通りが造られました。