鎌倉時代一覧

笠置山落城後に後醍醐天皇が移送された平等院

元弘元年(1331年)8月24日に京都を脱出し南都に向かった後醍醐天皇の一行は、8月26日には奈良に入っていました。 天皇は、東大寺や興福寺に討幕のために起ち上がるようにと、僧の聖尋(しょうじん)を遣わしましたが、ともに断られたため、奈良を立ち去り、京都府南部の笠置山にたてこもって、幕府軍と戦うことにしました。

護良親王の挙兵に対して幕府軍が布陣した一乗寺下り松

元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。 翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。 しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。 その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵し...

後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...

元弘の変で日野俊基が捕えられた京都御所

正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。 最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。 これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。

討幕の挙兵予定日は北野天満宮の祭礼の日・正中の変

蒙古襲来があった鎌倉時代中期以降、幕府の信用が悪化していきます。 幕府のために蒙古軍と戦った御家人たちに、恩賞として分け与える土地がなかったことがその理由です。 御家人たちの不満は、他にもありました。それは、幕府の政務を担当していた北条家の権力が強大化していったことです。 窮乏する御家人たちと違い、北条家だけ栄える状況に人々の不満が募るのは当然のこと。 さらに元亨元年(1321年)には、京都で台風、水害、地震といった天変地異が相次ぎ、庶民たちの暮らしも苦しくなっていきます。 加えて、元亨2年に東北で蝦夷が反乱を起こし、鎌倉幕府への不満が加速していきました。 ...

仏師の祖・定朝ゆかりの七条仏所跡には何もない

京都駅からほど近い七条高倉の交差点。 今は、車の通りが多く、民家やお店がたくさん並んでいます。 ここは、その昔、仏師たちが彫刻に励んだ七条仏所があった場所とされています。 現在は、その面影がなく、誰かに聞かないとわからないような感じなのですが、交差点の民家にそれを示す京都市の説明書が立っていたのを偶然に見つけたので、ここが七条仏所の跡地だということがわかりました。

法然が袈裟を掛けた松・光明寺

長岡京市の粟生(あお)は、浄土宗の開祖である法然が初めて念仏を説いた地といわれています。 この地には、建久9年(1198年)に法然の弟子の蓮生が、念仏三昧堂を建てたのが始まりとされるお寺が建っています。 そのお寺は、光明寺(こうみょうじ)といいます。

源平の史跡まとめ

京都には、源氏と平家の史跡が数多くあります。 当ブログでも過去記事でこれらの史跡を紹介してきましたが、記事を投稿した時期がバラバラのため、探し出して読むのが非常に困難な状況となっていました。 なので、過去に紹介した源平の史跡を時系列にしたがってまとめました。 なお、当記事内のリンクは、便宜上クリックすると新しくウィンドウが起動するようにしています。タブで開く場合は、Ctrlキーを押した状態で左クリックしてください。