元弘の変で日野俊基が捕えられた京都御所
正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。 最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。 これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。
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正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。 最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。 これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。
蒙古襲来があった鎌倉時代中期以降、幕府の信用が悪化していきます。 幕府のために蒙古軍と戦った御家人たちに、恩賞として分け与える土地がなかったことがその理由です。 御家人たちの不満は、他にもありました。それは、幕府の政務を担当していた北条家の権力が強大化していったことです。 窮乏する御家人たちと違い、北条家だけ栄える状況に人々の不満が募るのは当然のこと。 さらに元亨元年(1321年)には、京都で台風、水害、地震といった天変地異が相次ぎ、庶民たちの暮らしも苦しくなっていきます。 加えて、元亨2年に東北で蝦夷が反乱を起こし、鎌倉幕府への不満が加速していきました。 ...
京都駅からほど近い七条高倉の交差点。 今は、車の通りが多く、民家やお店がたくさん並んでいます。 ここは、その昔、仏師たちが彫刻に励んだ七条仏所があった場所とされています。 現在は、その面影がなく、誰かに聞かないとわからないような感じなのですが、交差点の民家にそれを示す京都市の説明書が立っていたのを偶然に見つけたので、ここが七条仏所の跡地だということがわかりました。
京都市上京区の狭い路地を歩いている時に五辻殿跡(いつつじどのあと)の石碑を発見しました。 五辻殿とは、何なのかと思って説明書を読んでみると、鎌倉時代の院御所ということがわかりました。 この五辻殿を使用していたのは、後鳥羽上皇です。
長岡京市の粟生(あお)は、浄土宗の開祖である法然が初めて念仏を説いた地といわれています。 この地には、建久9年(1198年)に法然の弟子の蓮生が、念仏三昧堂を建てたのが始まりとされるお寺が建っています。 そのお寺は、光明寺(こうみょうじ)といいます。
京都には、源氏と平家の史跡が数多くあります。 当ブログでも過去記事でこれらの史跡を紹介してきましたが、記事を投稿した時期がバラバラのため、探し出して読むのが非常に困難な状況となっていました。 なので、過去に紹介した源平の史跡を時系列にしたがってまとめました。 なお、当記事内のリンクは、便宜上クリックすると新しくウィンドウが起動するようにしています。タブで開く場合は、Ctrlキーを押した状態で左クリックしてください。
日本の曹洞宗の開祖で、福井県の永平寺を創建した道元が、生涯を終えた地が京都市下京区にあります。 道元は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、建長5年(1253年)に54歳でこの世を去りました。
京都市左京区の修学院離宮の南、曼殊院の北に音羽川という川が流れています。 その音羽川の脇には、雲母坂と呼ばれる坂道があります。 雲母坂と書いて「きららざか」と読みます。
京都市伏見区にある日野には、法界寺と日野誕生院というお寺が建っています。 どちらのお寺も浄土真宗の祖である親鸞と縁があることで知られています。
京都市中京区の三条通を河原町から西の烏丸に向かって進んで、アーケード街を過ぎたあたりに建っているビルの入り口付近に大きな石と石碑が置かれています。 その大きな石は、弁慶石と呼ばれています。