鎌倉時代一覧

大納言佐局と再会した地にある平重衡の墓

ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。 その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。 こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。 しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。

四条河原で討ち死にした北条時益

久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。 六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。 元弘3年(1333年)5月6日。 足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。

久我畷の戦いで佐用範家に討ち取られた名越高家

金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させることにしました。 これまで、仮病を使って出陣を拒んでいた足利高氏も今回は、執権の北条高時の命を拒否できず、妻子を人質に差し出して西へと向かうことになりました。 北条高時は、足利高氏がすすんで妻子を人質として差し出したことに大いに喜び、源義家より伝わる源氏の白旗を高氏に与えます。 名越勢と足利勢が上洛すれば、後醍醐天皇方の反乱も鎮まるはずと期待は膨らみます。

六波羅攻めのために千種忠顕が陣取った石清水八幡宮

元弘2年(1332年)に討幕を企てた後醍醐天皇は隠岐に流されました。 この時、天皇とともに隠岐に流された近臣には、一条行房と千種忠顕(ちぐさただあき)がいます。 隠岐に流された後醍醐天皇は、幕府の監視の中で、囚人として日々を送ることになりました。 しかし、幕府の警備の兵の中には、後醍醐天皇を隠岐から救い出し、京都に戻そうと計画している者たちがいました。

山崎と京都を何度も往復した赤松円心

元弘2年(1332年)に楠木正成が天王寺で討幕のために挙兵し、その後、11月には護良親王(もりながしんのう)も吉野で挙兵しました。 これに対して、鎌倉幕府も楠木正成がたてこもる赤坂城と千早城、護良親王がたてこもる吉野へ大軍を動員し、反乱を鎮めようとします。 幕府軍が、楠木正成と護良親王に手を焼いている間、今度は、元弘3年1月に赤松円心が播磨で挙兵しました。

わずか数十騎で楠木正成討伐に向かった宇都宮公綱

元弘2年(1332年)3月に鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が隠岐に流されました。 4月には、幕府が擁立した光厳天皇が即位したことで、一件落着と思えたのですが、ちょうどこの頃から後醍醐天皇に味方する楠木正成が動き出します。 楠木正成は半年前に赤坂城で戦死したと噂されていました。 ところが、彼は生きており、幕府の湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)が管理していた赤坂城を奪回したのです。 これに驚いた六波羅探題の北条仲時は、5月17日に楠木正成討伐のために隅田通治(すだまさはる)と高橋宗康に5,000の兵を持たせ、大阪の天王寺へと向かわせました。

後醍醐天皇が隠岐遠島の途中で休息した鳥羽離宮

元弘元年(1331年)9月に鎌倉幕府打倒のために笠置山にたてこもった後醍醐天皇でしたが、9月末に落城して捕えられた後、10月に六波羅に移されて監禁されました。 そして、三種の神器も後醍醐天皇から対立する持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)へと授けられ、天皇は、鎌倉幕府の処分の決定を待つ身となります。 また、後醍醐天皇の笠置籠城と時を同じくして、河内の赤坂城で幕府軍と戦っていた楠木正成も持ちこたえることができずに落城し、戦死したという噂が広まります。 これにより後醍醐天皇の討幕計画は、正中の変に続き、再び失敗となりました。

笠置山落城後に後醍醐天皇が移送された平等院

元弘元年(1331年)8月24日に京都を脱出し南都に向かった後醍醐天皇の一行は、8月26日には奈良に入っていました。 天皇は、東大寺や興福寺に討幕のために起ち上がるようにと、僧の聖尋(しょうじん)を遣わしましたが、ともに断られたため、奈良を立ち去り、京都府南部の笠置山にたてこもって、幕府軍と戦うことにしました。

護良親王の挙兵に対して幕府軍が布陣した一乗寺下り松

元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。 翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。 しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。 その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵し...

後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...