鎌倉時代一覧

河合神社の禰宜になれなかったから誕生した方丈記

京都市左京区の下鴨神社の第一の摂社は、同じ糺(ただす)の森の中に建っている河合神社(かわいじんじゃ)です。 河合神社の禰宜(ねぎ)は、代々、鴨氏がつとめていました。 禰宜というのは、簡単にいうと、神職のひとつで祭祀に従事するのが役目です。 鎌倉時代に河合神社の禰宜になる予定でいたけど、なれなかった人がいます。 それは、方丈記の作者の鴨長明です。

寺町二条にあった藤原定家の京極邸

鎌倉時代に藤原定家という文化人がいました。 歴史の教科書にも出てくる人物なので、その名くらいは聞いたことがあるでしょう。 藤原定家と言えば、小倉百人一首を選んだ人物、新古今和歌集の編纂に関わった人物として有名ですね。 嵐山には、時雨殿(しぐれでん)という小倉百人一首のミュージアムがあり、その辺りには、藤原定家が小倉百人一首を選んだ時雨亭がありました。 なので、藤原定家ゆかりの地として嵐山がよく知られていますが、実は、彼の邸宅は、京都市中京区の寺町二条にあったんですよね。

源頼朝が参道付近に植えた頼朝松・石清水八幡宮

京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)には、源頼朝ゆかりの松の「頼朝松」があります。 源頼朝と言えば、鎌倉幕府を開いたことで有名ですね。 頼朝は少年時代を京都で過ごしていますが、平治の乱で平家に敗れて後は、伊豆国蛭ヶ小島に流罪となります。 以後は、関東との関わりが深くなり、京都とは縁が薄くなった印象がありますね。 でも、頼朝は、その生涯で5度、石清水八幡宮に参詣しているということなので、意外と京都との関わりは深いように思えます。

大納言佐局と再会した地にある平重衡の墓

ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。 その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。 こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。 しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。

四条河原で討ち死にした北条時益

久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。 六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。 元弘3年(1333年)5月6日。 足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。

久我畷の戦いで佐用範家に討ち取られた名越高家

金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させることにしました。 これまで、仮病を使って出陣を拒んでいた足利高氏も今回は、執権の北条高時の命を拒否できず、妻子を人質に差し出して西へと向かうことになりました。 北条高時は、足利高氏がすすんで妻子を人質として差し出したことに大いに喜び、源義家より伝わる源氏の白旗を高氏に与えます。 名越勢と足利勢が上洛すれば、後醍醐天皇方の反乱も鎮まるはずと期待は膨らみます。

六波羅攻めのために千種忠顕が陣取った石清水八幡宮

元弘2年(1332年)に討幕を企てた後醍醐天皇は隠岐に流されました。 この時、天皇とともに隠岐に流された近臣には、一条行房と千種忠顕(ちぐさただあき)がいます。 隠岐に流された後醍醐天皇は、幕府の監視の中で、囚人として日々を送ることになりました。 しかし、幕府の警備の兵の中には、後醍醐天皇を隠岐から救い出し、京都に戻そうと計画している者たちがいました。

山崎と京都を何度も往復した赤松円心

元弘2年(1332年)に楠木正成が天王寺で討幕のために挙兵し、その後、11月には護良親王(もりながしんのう)も吉野で挙兵しました。 これに対して、鎌倉幕府も楠木正成がたてこもる赤坂城と千早城、護良親王がたてこもる吉野へ大軍を動員し、反乱を鎮めようとします。 幕府軍が、楠木正成と護良親王に手を焼いている間、今度は、元弘3年1月に赤松円心が播磨で挙兵しました。

わずか数十騎で楠木正成討伐に向かった宇都宮公綱

元弘2年(1332年)3月に鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が隠岐に流されました。 4月には、幕府が擁立した光厳天皇が即位したことで、一件落着と思えたのですが、ちょうどこの頃から後醍醐天皇に味方する楠木正成が動き出します。 楠木正成は半年前に赤坂城で戦死したと噂されていました。 ところが、彼は生きており、幕府の湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)が管理していた赤坂城を奪回したのです。 これに驚いた六波羅探題の北条仲時は、5月17日に楠木正成討伐のために隅田通治(すだまさはる)と高橋宗康に5,000の兵を持たせ、大阪の天王寺へと向かわせました。

後醍醐天皇が隠岐遠島の途中で休息した鳥羽離宮

元弘元年(1331年)9月に鎌倉幕府打倒のために笠置山にたてこもった後醍醐天皇でしたが、9月末に落城して捕えられた後、10月に六波羅に移されて監禁されました。 そして、三種の神器も後醍醐天皇から対立する持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)へと授けられ、天皇は、鎌倉幕府の処分の決定を待つ身となります。 また、後醍醐天皇の笠置籠城と時を同じくして、河内の赤坂城で幕府軍と戦っていた楠木正成も持ちこたえることができずに落城し、戦死したという噂が広まります。 これにより後醍醐天皇の討幕計画は、正中の変に続き、再び失敗となりました。