江戸時代一覧

朝鮮通信使が宿泊した大徳寺

天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。

新町御池にある肥前鹿島鍋島藩屋敷跡の石碑

江戸時代、諸国の藩は京都に藩邸を持っていました。 京都は、江戸時代でも都でした。 天皇の御所もあり、文化や学問の中心でもあったため、各藩は京都に藩邸を持ち様々な情報を収集していました。 京都に藩邸を持っていたのは、福井藩、薩摩藩、土佐藩のような大きな藩だけではありません。 わずか2万石の肥前鹿島鍋島藩も京都に藩邸を持っていました。

京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。

廬山寺にある慶光天皇陵

京都市上京区に廬山寺(ろざんじ)というお寺があります。 廬山寺の境内の東には、光格天皇の父である慶光天皇(きょうこうてんのう)の陵があります。 光格天皇が即位したのは江戸時代後期のこと。 光格天皇の前の天皇は後桃園天皇だったのですが、後桃園天皇には男子がいませんでした。 そのため、後桃園天皇が崩御した後は、慶光天皇の男子であった光格天皇が即位することになりました。

宝暦事件のおかげで平安時代の姿が蘇った京都御所

京都市上京区の京都御所は、平安京ができてから、ずっと同じ場所にあり続けているわけではありません。 平安京の大内裏(だいだいり)は、現在の京都御所よりも西の二条城が建つ辺りにあったのですが、何度も火災に遭い再建されなくなりました。 京都御所が現在地に定まったのは元弘元年(1331年)のことで、仮の内裏とされていた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)で光厳天皇が即位して以降、明治2年(1869年)まで、天皇の住いとして使用されてきました。 したがって、現在の京都御所は平安時代の大内裏とは違います。 でも、現在の京都御所は、平安時代の印象を残しています。

清浄華院の法然上人御骨塔

8月下旬に京都市上京区の廬山寺(ろざんじ)に参拝した後、少し北に建つ清浄華院(しょうじょうけいん)にも参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山に数えられる浄土宗のお寺です。 清浄華院には、年に数回お参りしますね。

江戸幕府が設置した鷹ヶ峰薬園の跡地

病気やケガをした時に治療のために使う薬は、いつから利用されていたのか知りませんが、日本だと江戸時代に全国に薬園が設置されていました。 有名なところでは、江戸の小石川薬園がありますが、京都にも北区の鷹峯(たかがみね)に寛永17年(1640年)に江戸幕府により、「鷹ヶ峰薬園」が設けられています。

麟祥院の方丈と御霊屋を拝観・京の冬の旅2019年

1月下旬に京都市右京区の妙心寺に参拝した時、塔頭(たっちゅう)の麟祥院(りんしょういん)を拝観しました。 麟祥院は、通常非公開の寺院ですが、毎年冬に行われる非公開文化財特別公開の京の冬の旅で、1月10日から3月18日まで特別拝観できます。 これまで、麟祥院の建物内に入ったことがなかったので、この機会に見ておこうと思い拝観することにしました。

清浄華院にある天明の大火の供養塔

1月中旬。 京都市上京区の清浄華院(しょうじょうけいん)に参拝しました。 清浄華院は、浄土宗四ヵ本山に数えられる浄土宗のお寺です。 清浄華院の西側に京都御苑があることから、京都御苑を散策する時にお参りすることが多いですね。 今回も、京都御苑を訪れる前に清浄華院に立ち寄りました。