江戸時代一覧

蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡

京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。

尾形光琳の菩提所・興善院旧跡

京都は、長い歴史の中で、数々の芸術家を輩出してきた地です。 江戸時代中期に活躍した画家の尾形光琳もまた京都の生まれです。 その尾形光琳の菩提所は、京都市上京区の妙顕寺の東にあった興善院で、現在は泉妙院というお寺が建っています。

銀座発祥の地・伏見銀座跡

日本でもっとも有名な繁華街はどこでしょうか。 そのような統計があるのかは知りませんが、東京の銀座は、関東に住んでいない人でも知っている繁華街ですから、日本で最も知られた繁華街の一つだと思います。 その銀座。 実は、発祥は京都市伏見区なのです。

四条通にある円山応挙宅址の石碑

京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。 今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。 四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。 その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。

朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。 しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。 そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。 朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西本願寺近くにあった本圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ本能寺が宿所とされました。

保津川の開削で仕事を奪われた丹波の馬借

京都府亀岡市から保津川の急流を下る保津川下りは、観光客にとても人気があります。 その保津川は、古くから京都への物資の輸送に利用されてきました。 材木を筏に組んで嵐山の渡月橋付近まで流し、それを京都に運んで建築資材として使っていたんですね。 江戸時代初期の慶長9年(1604年)には、角倉了以(すみのくらりょうい)が、保津川の開削を計画し、さらに物資を輸送しやすくしました。

朝鮮通信使が宿泊した大徳寺

天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。

新町御池にある肥前鹿島鍋島藩屋敷跡の石碑

江戸時代、諸国の藩は京都に藩邸を持っていました。 京都は、江戸時代でも都でした。 天皇の御所もあり、文化や学問の中心でもあったため、各藩は京都に藩邸を持ち様々な情報を収集していました。 京都に藩邸を持っていたのは、福井藩、薩摩藩、土佐藩のような大きな藩だけではありません。 わずか2万石の肥前鹿島鍋島藩も京都に藩邸を持っていました。

京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。