新撰組を脱走した山南敬助が眠る光縁寺
慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。
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慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。
文久2年(1862年)2月。 14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と皇女和宮(かずのみや)の婚礼が行われました。 両者はともに16歳。 皇女が武家に嫁ぐというのは、過去に例がなかったのですが、時世が両者を結び付けることとなったのです。
慶応4年(1868年)1月3日。 京都市伏見区で、新政府軍と旧幕府軍が激突しました。 この戦いは、鳥羽伏見の戦いと呼ばれ、明治2年(1869年)の函館戦争まで続く戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりとなります。 現在でも、伏見区には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいくつも残っています。
元治元年(1864年)7月に長州藩が、京都御所に乱入する事件が起こりました。 この事件は、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)付近で最も激しい戦闘が行われたことから、蛤御門の変や禁門の変と呼ばれています。 最終的に戦いは、京都御所を守った会津藩と薩摩藩を主力とする幕府軍が勝利しました。 この時、戦死した長州藩士と薩摩藩士のお墓が、京都御所の北に建つ相国寺境内にあります。
慶応3年(1867年)3月に新撰組から脱退した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、孝明天皇孝明天皇のお墓を警護することを目的とした御陵衛士(ごりょうえじ)を結成します。 新撰組は、隊士の脱退を認めておらず、違反した場合は死罪という厳しい掟がありました。 そこで、局長の近藤勇(こんどういさみ)は、伊東の暗殺を計画します。 かねてより伊東から300両のお金を工面して欲しいと頼まれていた近藤は、お金を用意できたと彼に伝え、同年11月18日に七条醒ヶ井(しちじょうさめがい)の妾宅で酒宴を開きます。 不用心にも一人で訪れた伊東は、泥酔して歩いて帰宅する途中に新選組隊士の大石鍬次郎...
京都市右京区の嵯峨野に小倉あん発祥の由来と書かれた説明書が立っている畑があります。 その畑の近くには、いつごろ置かれたものなのかわかりませんが、土佐四天王と呼ばれる4人の像が並んでいます。
京都市左京区の一乗寺に金福寺(こんぷくじ)と圓光寺というお寺が建っています。 この2つのお寺は、幕末、井伊直弼の愛人であった村山たかと深い関係があります。 村山たかをご存じない方が多いと思いますが、大河ドラマの第1作目の「花の生涯」のヒロインとして描かれた女性です。
叡山電車の一乗寺駅から東に15分ほど歩くと詩仙堂というお寺に到着します。 詩仙堂から北に5分ほど進むと、今度は山のふもとの木々の中に小さなお堂が現れます。 このお堂は、葉山観音というお寺のものです。
京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の参道に翠紅館(すいこうかん)という建物が建っていました。 翠紅館は、もともと西本願寺の別邸でした。 幕末には、勤王の志士と呼ばれた多くの人物が、ここで会議を行っています。
地下鉄京都市役所前駅の改札を抜けて、地上に上がると、京都ホテルオークラの大きな建物が現れます。 今では全く面影が残っていませんが、この地は、江戸時代に長州藩の屋敷が置かれた場所です。