車道を向いて立つ梅田雲浜邸跡の石碑
京都市中京区の烏丸御池駅は、地下鉄烏丸線と東西線が交差する駅です。 この烏丸御池駅の北東角から北に100メートルほど歩いた辺りに車道を向いている石碑が立っています。 歩道からでは、ただの石柱が立っているだけにしか見えませんが、車道からだと「梅田雲浜邸址」と刻まれているのがわかります。
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京都市中京区の烏丸御池駅は、地下鉄烏丸線と東西線が交差する駅です。 この烏丸御池駅の北東角から北に100メートルほど歩いた辺りに車道を向いている石碑が立っています。 歩道からでは、ただの石柱が立っているだけにしか見えませんが、車道からだと「梅田雲浜邸址」と刻まれているのがわかります。
坂本竜馬の暗殺については、その実行犯が誰だったのかということに関心が集まりますが、もうひとつ不思議に思うのが、なぜ暗殺された時、近江屋にいたのかということです。 近江屋跡は四条河原町の交差点を少し北に歩いたところにあり、そこから東に5分も歩けば、土佐藩邸跡があります。 坂本竜馬は、土佐藩出身だったのですから、わざわざ近江屋に宿泊しなくても、土佐藩邸にいれば良かったのではないかと思ってしまいます。
文久3年(1863年)に結成された新撰組は、当初は、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)、近藤勇(こんどういさみ)の3人が局長、つまり、組織のトップでした。 しかし、最終的には近藤勇だけが局長となり、他の2名は局長を降りることになります。 では、芹沢鴨と新見錦は、なぜ、局長を降ろされたのでしょうか。
元治元年(1864年)7月11日。 この日、佐久間象山(さくましょうざん)が、三条木屋町で刺客に襲われて亡くなりました。 佐久間象山を斬ったのは、河上彦斎(かわかみげんさい)。人斬り彦斎という異名を持つ剣の達人です。
文久3年(1863年)2月23日。 今日からちょうど150年前に近藤勇(こうどういさみ)が上洛しました。 近藤勇は、後に新撰組の局長となる人物で、この日の上洛が、彼の人生にとって重要な1日となりました。
これまで、このブログでは、京都にある幕末、明治維新の史跡を多く紹介してきました。 数年前に書いたものは、ブログの奥底へと沈んでしまい、探すのが一苦労といった状態。 なので、幕末・明治維新の史跡を紹介した記事だけをまとめておきました。今後、追加する幕末や明治維新に関連した記事もこのページからリンクを貼る予定です。
安政5年(1858年)に起こった弾圧事件、世に言う安政の大獄では、将来を嘱望された人材が幕府に捕えられ、次々と処刑されました。 安政の大獄というと、彦根藩出身の幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)が行った弾圧として知られていますが、その時の老中であった間部詮勝(まなべあきかつ)も重要な役割を果たしていました。
西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれている木戸孝允(きどたかよし)。 京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼のお墓があります。 木戸孝允は、桂小五郎ともいい、こちらの名の方がご存知の方が多いようで、京都霊山護国神社の墓地へと進む途中にある案内板には、木戸孝允と桂小五郎は同一人物といった旨が書かれています。
京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たち1,356名が祀られています。 その多くが、明治維新を見る前に亡くなった志士たちなのですが、中には、明治維新を迎えた後に亡くなった志士の墓碑もあります。 長州藩士の大村益次郎もそのうちのひとりです。
京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たちの墓碑が多数あります。 その多くは、長州藩士や土佐藩士のものですが、それ以外の藩士の墓碑や招魂社もあります。 幕末史にあまり登場しませんが、鳥取藩では、明治維新に貢献した志士87人が、霊山の山頂に建つ鳥取藩招魂社に祀られています。