祇園で交わされた薩土討幕の密約
京都市東山区の祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)から南に向かって2分ほど歩くと、左手に細長い石碑が立っています。 京都は、歴史的な事件が数多く起こっている都市なので、道を歩いているとよく石碑を目にします。 随分と昔に建立された石碑もありますが、つい最近建立された石碑もあり、祇園で見つけた「薩土討幕之密約記念碑」の石碑も、令和元年(2019年)7月16日の日付が記されていました。
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京都市東山区の祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)から南に向かって2分ほど歩くと、左手に細長い石碑が立っています。 京都は、歴史的な事件が数多く起こっている都市なので、道を歩いているとよく石碑を目にします。 随分と昔に建立された石碑もありますが、つい最近建立された石碑もあり、祇園で見つけた「薩土討幕之密約記念碑」の石碑も、令和元年(2019年)7月16日の日付が記されていました。
安政5年(1858年)に江戸幕府が、尊王攘夷を唱える志士たちを次々と捕らえる安政の大獄が起こりました。 最初に捕縛されたのは梅田雲浜で、他に頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らも捕らえられました。 この時、梁川星巌(やながわせいがん)も捕らえられる予定でしたが、当時流行していたコレラにかかって死亡していたため捕縛を免れました。
京都市東山区の維新の道を登っていくと、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)が建っています。 そこから南に少し歩くと、細い石段が山に向かって延びています。 石段を上った先には正法寺というお寺があるのですが、その途中には個人のお宅のような神社があります。 その神社は、霊明神社といいます。
京都市東山区の清水寺を拝観し、境内を巡って出口に近づこうかというところに2つの茶屋があります。 1軒は舌切茶屋、もう1軒は忠僕茶屋といいます。 春と秋の行楽シーズンでは、どちらの茶屋も人が多く大変賑わっていますね。 今は、観光客が、歓談しながら、お茶を飲んだり食事をしたりしている舌切茶屋と忠僕茶屋ですが、2つの茶屋が清水寺で営業を始めたのは、幕末の安政の大獄と関係しています。
京都市東山区の三年坂には、立派な枝垂れ桜が植えられています。 その枝垂れ桜があるのは、明保野亭(あけぼのてい)というお店です。 春の観光シーズンともなれば、三年坂を通る人は、必ずと言っていいほど、この枝垂れ桜の前で立ち止まり、その美しく咲いた姿に見とれていますね。 そんな旅行者や観光客に人気の明保野亭ですが、幕末の元治元年(1864年)に会津藩士の柴司(しばつかさ)が切腹するにいたった明保野亭事件が起こっています。
京都市下京区の京都駅の近くに東本願寺が建っています。 その東本願寺から東に3分ほど歩くと、当寺の飛地境内の渉成園(しょうせいえん)があります。 渉成園を拝観すると、立派なパンフレットを1部いただけます。 パンフレットには4種類あり、その中の「人物往来記 後編」では、幕末に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と将軍後見職の一橋慶喜が、渉成園を訪れたことが記されています。
京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。
京都は、今では、すっかり観光都市となっていますが、幕末には政治が動いた地でした。 坂本竜馬や新撰組など、数多くの幕末の有名人が、ここ京都を舞台に新たな時代に向かって駆け抜けていきました。 また、大政奉還など政治的に重要な事件もまた、京都で起こりました。 そんな幕末のロマン満載の京都は、多くの旅行者や観光客が宿泊できるようにたくさんのホテルが建っています。 そして、それらホテルの中には、幕末の有名人が滞在した場所に建っていたり、重大な事件現場の近くに建っていたりするものもあります。 幕末の志士たちの足跡をたどるために京都に観光でお越しの際は、これら、幕末の有名人ゆか...
安政元年(1854年)3月3日に幕府は、日米和親条約に調印し、4月5日にそのことを朝廷に奏上しました。 その後、安政3年7月にアメリカ総領事ハリスが下田に着任すると、日米通商条約の締結を要請してきました。 この時、交渉全権に就任したのが、岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直です。
明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。