青蓮院にある5本のクスノキ

京都市東山区の地下鉄東山駅から南に5分ほど歩いた辺りに建つ青蓮院(しょうれんいん)には、立派なクスノキが5本植えられています。 この5本のクスノキは、京都市登録天然記念物となっています。 天然記念物に登録されるだけあって、背がとても高く、横に張り出した枝も飲み込まれそうなくらいの迫力があります。

御池大橋の近くにある夏目漱石の句碑

明治時代から大正時代に活躍した文豪夏目漱石は、生涯に4度京都を訪れています。 最初は明治25年(1892年)の夏に友人の正岡子規と訪れ、その後、明治40年春、明治42年、大正4年(1915年)と京都に来ています。 最後の訪問の時は、京都市中京区の御池大橋付近の北大嘉(きたのたいが)という旅館に宿泊しています。

東寺と教王護国寺はどちらが正式名称なのか?

京都市南区に建つ五重塔で有名な東寺。 東寺には、他にも教王護国寺という名称があります。 金閣寺の正式名称が鹿苑寺(ろくおんじ)、銀閣寺の正式名称が慈照寺、苔寺の正式名称が西芳寺というように京都のお寺では、2つの名で呼ばれているところがいくつもあります。 東寺もそのひとつですね。 では、東寺と教王護国寺はどちらが正式名称なのでしょうか。

豊臣秀吉を祀る豊国神社

京都市東山区に建つ豊国神社は、その名から想像できるように豊臣秀吉を祀っている神社です。 豊臣秀吉というと、大坂城のイメージが強いですが、京都との関係が深い人物です。 京都を城郭都市とするために御土居を造りましたし、亡くなったのは伏見城だったわけで、秀吉は全盛期から晩年まで、京都で過ごしていました。 秀吉が亡くなると、その遺言により、遺体は東山の阿弥陀ヶ峰に葬られ、そのふもとに廟社が建てられ、後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜りました。 しかし、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると徳川幕府により、廟社は壊されてしまい、明治時代まで再建されませんでした。

局長なのに粛清された新見錦と芹沢鴨

文久3年(1863年)に結成された新撰組は、当初は、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)、近藤勇(こんどういさみ)の3人が局長、つまり、組織のトップでした。 しかし、最終的には近藤勇だけが局長となり、他の2名は局長を降りることになります。 では、芹沢鴨と新見錦は、なぜ、局長を降ろされたのでしょうか。

武勇に優れた建御名方神を祀る尚徳諏訪神社

日本の神話の中に大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲りの話があります。 大国主命が天照大神に自分が統治していた国を譲ったという話ですね。 この国譲りの話の中で、大国主命の2人の子供が登場します。 ひとりは建御名方神(たけみなかたのかみ)で、もうひとりは事代主神(ことしろぬしのかみ)です。 このうち、建御名方神は、長野県の諏訪大社(すわたいしゃ)に祀られています。

京都各地に散らばる血天井

慶長5年(1600年)は、関ヶ原の戦いが起こった年として有名ですね。 その関ヶ原の戦いが起こる前に京都の伏見城で、東軍と西軍の戦いが起こっています。 この年の6月18日に徳川家康は、上杉討伐のために東に出陣するわけですが、伏見城で家臣の鳥居元忠に別れを告げます。 鳥居元忠は、家康の留守中に西軍が伏見城を攻めてくることをわかった上で、城を枕に討ち死にする覚悟。 そして、7月19日に宇喜多秀家や吉川広家らが率いる西軍4万が伏見城にたてこもる2千名弱の鳥居勢に襲いかかります。 激しい攻防の末、8月1日に伏見城は落城、鳥居元忠と残兵380名余りは、自害して果てました。 ...

日本にも奴隷制度はあったのか?

西洋の歴史の中では、奴隷制度が出てきます。 西洋の奴隷は、人格を完全に否定され、自由も拘束された人たちだったわけですが、こういった奴隷制度が日本にもあったのでしょうか。 日本史の中では、西洋のような奴隷制度は、あまり出てこないので、なかったように思いますが、まったくなかったわけではありません。

神社に祀られている動物たち

神社にお参りに行くと、様々な動物が祀られていることに気づきます。 サル、ウシ、キツネなど、その神社によって違いはありますが、多くの神社で動物を祀っていますね。 ところで、こういった動物たちと神社は、一体どういう関係にあるのでしょうか。 今回の記事では、動物たちがそれぞれの神社に祀られている理由を調べてみたので、紹介します。