京都の歴史一覧

日本にも奴隷制度はあったのか?

西洋の歴史の中では、奴隷制度が出てきます。 西洋の奴隷は、人格を完全に否定され、自由も拘束された人たちだったわけですが、こういった奴隷制度が日本にもあったのでしょうか。 日本史の中では、西洋のような奴隷制度は、あまり出てこないので、なかったように思いますが、まったくなかったわけではありません。

国のために戦った英霊たちを祀る京都霊山護国神社

京都市東山区に建つ京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新以降、国のために戦った人たちの英霊が祀られています。 特に有名なのが、幕末の勤王の志士たちの慰霊碑で、墓地には坂本竜馬や中岡慎太郎のお墓もあります。 ここに訪れる多くの人は、幕末の志士たちに興味があるようですが、他にも第2次世界大戦で亡くなった人たちの英霊も祀られているので、そういった人たちの鎮魂のために置かれた慰霊碑なんかも見て欲しいですね。

京都市山科区にある佐治城碑

その昔、今の滋賀県甲賀郡に佐治氏という豪族が住んでいました。 居城としていたのは佐治城で、代々この城を守ってきました。 しかし、天正13年(1585年)に佐治城は落城、城とともに佐治氏も滅亡しました。

織田信長と信忠の碑がある大雲院

織田信長は、比叡山を焼き討ちしたり本願寺と長年にわたって争ったりと、宗教弾圧を行った事で有名です。 神をも恐れない人物、古い体制を壊して新時代を創造する人物、織田信長にはそういった印象がありますね。 でも、信長が全面的に宗教を否定していたのかというと、そんなこともなかったようです。

常盤御前が雪をしのいだ松の残株がある寶樹寺

平治元年(1159年)12月に起こった平治の乱は、平清盛が源義朝に勝利したことで終わりました。 しかし、負けた側の源義朝の家族にとっては、ここからが本当の戦い。 平清盛に捕えられると、当然ながら命の保証はないわけですから、とにかくどこかに逃げなければなりません。 義朝の妻であった常盤御前も、今若、乙若、牛若の3人の子供を連れて都から逃げることになりました。

幕末・明治維新の史跡まとめ

これまで、このブログでは、京都にある幕末、明治維新の史跡を多く紹介してきました。 数年前に書いたものは、ブログの奥底へと沈んでしまい、探すのが一苦労といった状態。 なので、幕末・明治維新の史跡を紹介した記事だけをまとめておきました。今後、追加する幕末や明治維新に関連した記事もこのページからリンクを貼る予定です。

京都での安政の大獄の拠点・間部詮勝寓居跡

安政5年(1858年)に起こった弾圧事件、世に言う安政の大獄では、将来を嘱望された人材が幕府に捕えられ、次々と処刑されました。 安政の大獄というと、彦根藩出身の幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)が行った弾圧として知られていますが、その時の老中であった間部詮勝(まなべあきかつ)も重要な役割を果たしていました。

大村益次郎の墓碑・京都霊山護国神社

京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たち1,356名が祀られています。 その多くが、明治維新を見る前に亡くなった志士たちなのですが、中には、明治維新を迎えた後に亡くなった志士の墓碑もあります。 長州藩士の大村益次郎もそのうちのひとりです。