京都の歴史一覧

政治の遅れは1年で取り戻せても文化の復興には150年かかる

2014年の祇園祭は、49年ぶりに後祭が復活したこと、その後祭の山鉾巡行で150年ぶりに大船鉾(おおふねほこ)が巡行したことが話題となりました。 ところで、なぜ、大船鉾が150年もの間、山鉾巡行に参加しなかったのでしょうか。 それは、150年前に京都で起こった大きな戦争が原因なんですね。

南朝が逆襲に転じた正平の役

正平7年(1352年)に南朝が京都を奪還しようとした正平の役が起こりました。 正平の役は、八幡合戦とも呼ばれており、京都府八幡市で南朝の軍と足利義詮の軍が戦いました。 この頃、室町幕府は、足利尊氏と弟の直義が争っており、南朝はその混乱に乗じて、京都還幸を試みたのです。

豊臣秀頼が再建した京都の寺社

元和元年(1615年)に起こった大坂夏の陣で、豊臣家は滅びました。 徳川家康は、豊臣家を滅ぼすためにあれこれと画策をして戦の口実を作り大坂城を攻めたわけですが、その前に豊臣秀吉が子の秀頼のために残した莫大な資金を使わせて経済的に疲弊させようとします。 そのために家康が考えたのが、豊臣家に各地の寺社を再建させることでした。 寺社の再建には多額の資金が必要になります。なので、豊臣家の莫大な金銀を消費させるには、ちょうど良かったんですね。 秀頼の名で再建した寺社は様々なところにありますが、その中でも、京都の有名な寺社に多額の資金が使われています。

大坂淀屋が寄進した高灯籠がある與杼神社

京都市伏見区の京阪淀駅は、京都競馬場の最寄り駅です。 週末になると、たくさんの人が淀駅で降りますね。 駅を出て、京都競馬場とは反対の方向に5分ほど歩くと、與杼神社(よどじんじゃ/与杼神社)があります。 以前は、神社の入り口付近が淀駅の改札となっていましたが、現在は競馬場近くに駅が移ったため、與杼神社の周辺は、以前よりも閑散としています。 その與杼神社の本殿脇には、江戸時代の豪商の大坂淀屋とゆかりのある高灯籠が立っています。

三好三人衆の襲撃から足利義昭を救った僧侶の言葉・本圀寺の変

永禄12年(1569年)1月5日の早朝。 京都の六条にあった本圀寺を三好長逸(みよしながやす)、三好政康、岩成友通の三好三人衆が攻撃しました。 これを本圀寺の変とか六条合戦といいます。 本圀寺は、織田信長が室町幕府15代将軍に擁立したばかりの足利義昭が仮御所としていました。

御陵衛士の間者の粛清・京都守護職屋敷跡

慶応3年(1867年)3月。 新撰組の参謀であった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が仲間とともに御陵衛士(ごりょうえじ)を結成しました。 これは、事実上の新撰組脱退だったのですが、伊東は局長の近藤勇(こんどういさみ)に自分たちは脱退ではなく分離しただけだと主張します。 そして、薩長と親密に交わり、その機密を入手して新撰組の活動に役立てると言って、自分たちの脱退をうまく正当化しました。 ただ、伊東は、自分に味方する者すべてを脱退させたわけではなく、スパイとして、佐野七五三助(さのしめのすけ)、茨木司(いばらきつかさ)、中村五郎、富永十郎など10名の同志を新撰組に残しておき...

太平記・南北朝時代の史跡まとめ

京都には、たくさんの南北朝時代の史跡があります。 京都は、室町幕府ができた場所であり、また、鎌倉幕府の出先機関であった六波羅探題が置かれたところでもあったので、南北朝の争乱の舞台となったんですよね。 私は、過去に京都にある太平記や南北朝時代の史跡を探しては訪れ、ブログで紹介してきましたが、最近、それらの記事数が多くなってきたので、そろそろまとめておいた方が良さそうだなと思っていました。 ということで、この記事で、太平記・南北朝時代の史跡を紹介した記事を一覧にしてまとめておきます。

大黒寺の伏見寺田屋殉難九烈士の墓

京都市伏見区に大黒寺というお寺が建っています。 大黒寺は、江戸時代に薩摩藩と深い関係があったお寺で、墓地には、文久2年(1862年)4月23日に起こった寺田屋事件で、命を落とした9人の藩士のお墓があります。 以前から、大黒寺に9人のお墓があることは知っていたのですが、実際に見たことがなかったので、先ごろ、お墓参りに行ってきました。

伏見の会津藩駐屯地跡と土佐藩邸跡

京都市伏見区は、幕末の歴史の舞台によく登場する地域です。 寺田屋事件や坂本竜馬が幕府の役人に捕えられそうになったのも、伏見ですね。 幕末に伏見で起こった最も大きな事件と言えば、鳥羽伏見の戦いではないでしょうか。 幕府の主力となった会津藩は、この戦いで伏見御堂(ふしみみどう)を駐屯地とし、その近くには、新政府につくか幕府につくか立場が明らかでなかった土佐藩の伏見藩邸もありました。