大堰川の由来となった葛野大堰を造った秦氏

昔から京都の中心は四条烏丸でした。

四条烏丸が、京都の中心となった理由のひとつに鴨川が近くを流れていたということが挙げられます。

川の近くに文明が発達しやすいというのは、京都でも同じだったんですね。

さて、京都を流れる川は鴨川だけではありません。

市内の西を流れる大きな川に桂川がありますね。

この桂川の流域でも、古代に勢力を伸ばした豪族がいました。

それは、秦(はた)氏です。

ダムを建設して取水

桂川と言えば、嵐山の渡月橋が有名です。

この渡月橋の辺りには、秦氏が造った堰(せき)があったと言われています。

堰とは、今でいうダムのこと。

秦氏は、桂川から水を汲む際にダムを建設して取水していたんですね。

桂川

桂川

秦氏がなぜ堰を造って取水していたかと言うと、桂川の西岸が川より標高が高かったため、直接川から水を汲むことが困難だったからです。

そこで、秦氏は川の流れをせき止めるためにダムを造ったんですね。

ダムを造ると川の流れに淀みができます。

川の流れが速いと水を汲むのが難しいですが、淀みがあれば、そこから取水することが可能です。

この秦氏が造ったダムは、葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれています。

現在、渡月橋より下流を桂川と呼び、上流を大堰川と呼びます。

大堰川

大堰川

そう、大堰川の名は、秦氏が造った葛野大堰に由来しているんですね。

川の流れを有効利用した秦氏は、力を拡大し、このあたり一帯を勢力下におさめました。

現在、映画村がある太秦(うずまさ)は、秦酒公(はたのさけきみ)が雄略天皇の支配下に入った時、多くの絹布をうず高く積み上げたことから、その名が付いたと伝えられています。

太秦の近くに建つ広隆寺は京都で最も古いお寺とされていますが、当寺を建立したのも秦氏です。

日本書紀には、推古11年(603年)に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜って建立したと記されています。

また、広隆寺の近くに建つ大酒神社は秦の始皇帝を祀っていますが、他に秦酒公も祀られており、古代において秦氏の力が大きかったことがうかがえます。

現在、桂川が流れる嵐山は、京都でも有数の観光地として人気があります。

近代的な建物が少なく、のどかな風景が残っている場所で、いつ訪れても心を洗われるような爽快感があります。

現在の様々な都市と比較すると、嵐山周辺は田舎です。

それでも観光地として賑わっているのは、その景観の美しさだけでなく、古代において、秦氏が桂川流域を発達させたからなのかもしれませんね。