江戸時代の荷物の運搬を助けた車石

京都駅から伏見区まで南北に竹田街道が走っています。

竹田街道は昔から京都の交通にとって重要な役割を果たしており、人だけでなく多くの荷物も行き来していました。

江戸時代には、荷物を運ぶのに牛車(うしぐるま)を利用しており、材木や米などが運ばれていました。

御香宮神社の車石

牛車で荷物を運ぶ時、困ることがありました。

それは雨が降った時です。

竹田街道の近くには、小さな川がいくつもあり、当時の道はアスファルトで舗装されていなかったため、雨が降ると道がぬかるみ、車輪が動きにくくなるのです。

そこで、花崗岩を道の脇に敷いて、牛車が雨が降っても通りやすくしました。

道に敷かれた石は、車石(くるまいし)や輪形石(わがたいし)と呼ばれました。

現在、伏見区の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)の境内に竹田街道に敷かれていた車石が置かれています。

車石が置かれているのは東の鳥居の近くです。

御香宮神社の東の鳥居

御香宮神社の東の鳥居

下の写真に写っているのが車石です。

車石

車石

車石の近くにある説明書によると、車石は、人や馬が通ることを考慮して安全のため、道の端の一段低いところに敷かれたそうです。

写真を見るとわかるとおり、車石には溝ができています。

この溝は、牛車が通りやすくするように彫ったものと考えられていますが、車が通るときにできたものとも考えられており、実際のところはよくわかっていません。

また、車石は、竹田街道のどのあたりにどれくらいの距離敷かれていたのかもわかっていないそうです。

なお、車石は、京都と大津の間の京津街道や京都と下鳥羽の間の下鳥羽街道にも敷かれていました。

日本初の一方通行

竹田街道に車石が敷かれたことで、荷物の運搬が従来よりも楽にできるようになりました。

しかし、ここでひとつの問題が発生します。

それは、車石が敷かれているのは、街道の片側だけだったということです。つまり、単線だったわけです。

京都から伏見に向かう牛車と伏見から京都に向かう牛車が、同じ車石の上を進むと、途中でぶつかることになります。

そこで、必要となるのが交通規制です。

北上する牛車と南下する牛車がぶつからないようにするために、午前中は京都への上り一方通行とし、午後は京都からの下り一方通行にすることで、この問題を解消しました。

ちなみに竹田街道の北の始点から京都御所までの区間は、東洞院通と呼ばれ、江戸時代の享保年間(1716-1736年)に北向き一方通行とされました。これが日本初の一方通行といわれています。

車石の一部だった輪形地蔵

竹田街道の北の始点は、現在の京都駅付近です。

この近くには、正行院というお寺が建っており、お地蔵さんが祀られています。

正行院

正行院

ある日、村人が夢の中でお告げを受け、竹田街道の車石をひとつ掘り起こすことにしました。

その車石を見てみると、立派なお地蔵さんでした。

村人は、交通安全のご利益があると敬い、輪形地蔵と呼び、お祀りしました。

その輪形地蔵が祀られているのが、正行院です。

正行院は京都駅から近いので、京都観光の際の交通安全を祈願すると良いですね。

御香宮神社で何気なく見つけた車石ですが、実は、江戸時代の荷物の運搬に非常に重要な役割を果たしていたんですね。