慶応4年(1868年)4月25日。
この日、東京の板橋で新撰組局長の近藤勇(こんどういさみ)が斬首されました。
その後、彼の首は京都に送られ、三条河原にさらされました。
大坂城から江戸へ
下の写真は、現在の三条河原です。
近藤勇の首がさらされたのは、大体この辺りです。
慶応3年12月に新撰組を脱退し結成された御陵衛士(ごりょうえじ)の残党によって近藤勇は右肩を撃たれました。
そのため、近藤は治療のために京都を離れ、病気の沖田総司とともに大坂城に入りました。
年が明けて慶応4年1月3日。
京都では、新政府軍と旧幕府軍との間に鳥羽伏見の戦いが起こります。
近藤勇を欠く新撰組も副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)の指揮のもと伏見で新政府軍と戦いましたが、新式兵器の前に敗れ、大坂城へと退却しました。
新撰組が大坂城に着いた時には、15代将軍徳川慶喜は、すでに軍艦に乗って江戸に逃げ去った後でした。
大坂城に取り残された新撰組も榎本武揚(えのもとたけあき)とともに富士山丸に乗って江戸へ向かうことにしました。
甲陽鎮撫隊
江戸に戻った近藤勇と新撰組は、幕府から甲府城に向かうように指令を受けます。
新撰組には、軍資金として5,000両が与えられ、名も甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)に改めました。
しかし、これは、新政府軍と戦う意思がなかった勝海舟が、江戸に新撰組がいたのでは、騒動になると考えたため、彼らを甲府に追っ払う口実だったとされています。
ちなみに近藤勇は、幕府から旗本に召し抱えられており、名を大久保大和(おおくぼやまと)と変えていました。
3月1日。
近藤は、約200人の甲陽鎮撫隊とともに甲府城に向かって出陣しました。
甲陽鎮撫隊は、途中、近藤の生まれ故郷に立ち寄るなど、ゆっくりと行軍したため、新政府軍が先に甲府城に入ってしまいました。
もともと兵力に乏しい甲陽鎮撫隊にとって、新政府軍が先に甲府城に入ったのは痛手です。
さらに土方歳三が援軍を要請していた菜葉隊(なっぱたい)も出陣する気配がありません。
結局、甲陽鎮撫隊は、新政府軍に散々に打ちのめされ、江戸へと引き返すことになりました。
流山で捕えられる
江戸に引き返した近藤たちは、今後どうするかを話し合いました。
しかし、この話し合いの中で、新撰組結成以来のメンバーだった永倉新八と原田左之助が、近藤と口論となり離脱。
近藤は、土方たちと下総(千葉県)の流山に移動して兵を募集することにしました。
流山で近藤は、兵の募集に加えて武器の調達も行います。
しかし、この動きを察知した新政府軍は、薩摩藩の有馬藤太と数百人の兵を流山に派遣します。
近藤は、有馬にこの付近の治安維持のために兵と武器を集めていると言いました。
これに対して有馬は、詳しい事情を聴く必要があるので、武器を差出し、新政府軍の陣に来るように近藤に言いました。
近藤は、有馬に従い、兵を解散させ、新政府軍の陣へと向かうことにしました。
板橋で斬首
新政府軍の陣に着いたとき、近藤は、大久保大和と名乗っていました。
近藤勇の名は、新政府軍に知られていましたが、大久保大和がどのような人物なのか、新政府軍はわかっていないと思ったのかもしれません。
しかし、近藤にとって不幸だったのは、新政府軍の中に新撰組を脱退した御陵衛士の残党の加納道之助がいたことです。
加納は、大久保大和の顔を見て、それが新撰組局長の近藤勇であることを見破りました。
さらに近藤が不運だったのは、この時の新政府軍の大軍監が、土佐藩の谷干城(たにたてき)だったことです。
谷は、同じ土佐藩出身の坂本竜馬を近江屋で暗殺したのは、新撰組だと思っていました。
そのため、近藤の処分を厳しいものにするべきではないという有馬藤太の意見を谷は聞くことができず、処刑することにしました。
そして、4月25日。
近藤は切腹することを許されず、板橋で斬首されました。
近藤勇の首は、見世物とするために三条河原にさらされましたが、その顔が平静を保っていたので、罵る者はいなかったと伝えられています。
数日後、近藤勇の首は、三条河原から姿を消しました。
彼の首を持っていったのが誰なのか、今も謎のままです。
近藤勇の首が三条河原にさらされる4年前、三条大橋近くで池田屋事件が起こりました。
この事件で、新撰組は一躍有名になったわけですね。
今でも三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)には、池田屋事件の時の刀傷が残っています。