京都市内で本願寺というと、京都駅近くの東西の本願寺が有名。
西本願寺は天正19年(1591年)に豊臣秀吉の寺地寄進で創建され、東本願寺は慶長7年(1602年)に徳川家康の寺地寄進で創建されています。
西本願寺以前は、大坂に石山本願寺があり、織田信長と長い年月戦いを繰り広げたことで知られています。
さらにその前には、京都市山科区に山科本願寺(やましなほんがんじ)がありました。
越前吉崎から山科へ
山科本願寺の創建は、文明10年(1478年)。
かつて、現在の東山区に建つ知恩院の辺りに大谷本願寺があったのですが、寛正6年(1465年)に比叡山の僧都により破却され、蓮如(れんにょ)上人が、宗祖親鸞聖人の御真影を近江の金森に避難させています。
文明3年に越前吉崎に赴いた蓮如上人は、当地で布教活動を行っていましたが、一向一揆が激しさを増すと、文明7年にいったん河内に移転。
その後、海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け、山科を布教の拠点にすべく移住することになりました。
これが山科本願寺の始まりです。
宗教都市として繁栄
山科本願寺は、単に境内にお堂が建っている一般的なお寺ではなく、当寺全体がひとつの町を形成していました。
山科の住民はもちろんのこと、諸国からも浄土真宗の門徒や商工業者が移住して工事が進められ、諸堂が完成すると周囲は末寺や門徒の住居が取り囲むように寺全体が発展。
さらに二重三重に土塁や堀が巡らされて一つの宗教都市が完成しました。
敷地面積は43万坪もあったとされ、文明15年には「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国の如し」と称されるほどの景観を備えたという。
また、土塁や堀で囲まれた町は寺内町(じないちょう)と呼ばれ、江戸時代の城下町のような様相を呈していたと伝えられています。
法華一揆で灰燼に帰す
しかし、その繁栄も天文元年(1532年)の法華一揆により終焉を迎えます。
畿内で一向宗の勢力拡大を恐れた室町幕府管領(かんれい)の細川晴元が、京都の法華宗門徒を扇動。
近江国の守護六角定頼も支援し、山科本願寺と寺内町に火が放たれ灰燼に帰しました。
この時、親鸞聖人の御真影は、実従上人によって持ち出され、後に大坂に移されたことから石山本願寺が本山となります。
以後は、冒頭でも述べたように織田信長と戦いましたが、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の仲介で和議が成立。
やがて、豊臣秀吉の寺地寄進により京都に戻っています。
東西の山科別院
地下鉄の東野駅から北西に約5分歩くと、西本願寺山科別院が建っています。
この辺りが、かつての山科本願寺とその寺内町があった場所。

西本願寺山科別院の山門
西本願寺山科別院が建立されたのは、享保17年(1732年)ということですから、法華一揆からちょうど200年後。

西本願寺山科別院の本堂
住如上人が、北山別院よりお堂を移築して舞楽寺として再興し、安永3年(1774年)には現在の本堂が完成しています。
また、西本願寺山科別院から北に約5分歩くと、東本願寺山科別院もあり、この辺りも山科本願寺の一部だったとされています。
入口には、別称の東御坊と刻まれた高身長の石柱が直立し、大寺院であった山科本願寺の威厳を今に伝えているかのよう。

東御坊
東本願寺山科別院も、享保17年に東本願寺の長福寺のお堂を移築して創建されています。
玄関の前には、当地に布教の拠点を移した蓮如上人の像。
その表面は風雨にさらされ、今でも厳しい修行中かのように薄く黒ずんでいます。

蓮如上人像
法華一揆から200年後に東西の本願寺が山科に別院を創建したのは、ここが浄土真宗の布教の歴史の中で重要な意味を持っていたからなのでしょう。
現在の周辺の静けさから、城下町のような寺内町があったと想像するのは難しい。
なお、西本願寺山科別院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。