治承元年(1177年)に当寺権勢をふるっていた平家を倒そうという計画がありました。
世に言う鹿ケ谷の変です。
この計画は、事前に平清盛に察知され、関係者は捕えられ、処刑されたり、島流しにされたりしました。
鹿ケ谷の変に関わり島流しとなった者の中には、平康頼という人物もいました。
鬼界ヶ島へ流される
平康頼が流されたのは、現在の硫黄島とされている鬼界ヶ島でした。
康頼の他に藤原成経と俊寛も鬼界ヶ島に流されました。
鬼界ヶ島への島流しは、当時としては重い罰でした。
康頼は、島に流される途中、髪をおろし名を性照(しょうしょう)と変えます。
鬼界ヶ島に到着した3人のうち康頼と成経は、自分たちの愚かな行為を反省し、日々、熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)に都へ帰れるように祈りました。
そして、康頼は、故郷が恋しい気持ちを詠んだ以下の2首の歌を阿字、梵字、年月実名とともに千本の卒塔婆に記して海に流しました。
- 思ひやれ しばしと思ふ 旅だにも なほ故郷は 恋しきものを
- 薩摩方 沖の小島に 我ありと 母には告げよ 八重の潮かぜ
すると、そのうちの1本が安芸(広島県)の厳島神社(いつくしまじんじゃ)に流れ着き、偶然にも康頼と縁のある僧がこれを拾って都に持って帰り、康頼の母と妻子に届けました。
この話は、後白河法皇にも届きます。
康頼を哀れと思った法皇は、彼の罪を許してやるようにと、平清盛、重盛の父子を説得しました。
説得された清盛も、さすがに康頼を哀れと思い、彼の罪を許すことにしました。
また、藤原成経も平教盛(たいらののりもり)の嘆願により罪を許されることになりました。
そして、治承2年、清盛の娘の建礼門院徳子の安産祈願の大赦という名目で、2人は鬼界ヶ島から都に戻されました。
現在でも、広島県の厳島神社には、平康頼が流した卒塔婆がたどりついた場所とされる石が残っています。
「古代文化研究所」さんの下記記事にその写真が掲載されていますので、ご覧になってください。
大徳寺にある平康頼の塔
京都市北区の大徳寺には、勅使門の近くに平康頼の塔があります。
ところで、どうして大徳寺に康頼の塔があるのでしょうか。
「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」さんの平康頼の塔(大徳寺)の記事によると、以下のような内容が書かれていました。
帰京後、康頼は仏教説話集の宝物集を著し、これが極楽往生の啓蒙書として念仏僧に利用されました。大徳寺がある紫野に建つ雲林院は、念仏僧の多く集まる地だったので、ここに康頼の塔が建てられたのではないかと。
なるほど。確かにそうかもしれませんね。
また、康頼の母が紫野に住んでいたことも、大徳寺に供養塔が立てられたことと関係があるのかもしれません。
ちなみに康頼が帰京後、宝物集を著した雙林寺が東山区の円山公園付近に建っています。
雙林寺がある地は、康頼と同時代を生きた西行も庵住したところと伝えられています。
なお、大徳寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。