別業から寺院になった平等院

京都府宇治市は、宇治川が流れていることから、古くより京都の水上交通の重要拠点でした。

京都と大阪の物資の移動に宇治川が利用され、また、奈良とも大和街道で結ばれていることから陸上交通にとっても重要な拠点でした。

そういった地理的な理由もあり、平安時代には、宇治に貴族たちの別荘が多く建ち並びました。

源融が営んだ宇治別業

貴族たちが営んだ別荘は、別業(べつごう)と呼ばれていました。

別業は、避暑地として、また、隠棲地として京都の周辺に造られ、鞍馬、嵯峨野、大山崎、伏見、そして、宇治に多く見られました。

10円玉に描かれている鳳凰堂で有名な平等院もまた、もともとは宇治別業でした。

春の平等院

春の平等院

宇治別業は、源氏物語に登場する光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)が営んだものです。

源融は、嵯峨天皇の皇子であったことから、没後は宇多天皇に宇治別業は引き継がれました。

その後、敦実親王(あつみしんのう)、源重信を経て、宇治別業は、長徳4年(995年)に藤原道長の手に渡ります。

宇治別業から平等院へ

宇治別業は、宇治殿とも呼ばれ、藤原道長が亡くなった後は、その子の頼通に引き継がれました。

当初は、頼通も、宇治殿を別業として営むつもりでした。

その頃、仏教の力が衰え、世の中が乱れるとする末法思想が広まりを見せており、貴族の間で仏殿を建立して供養することがしきりに行われていました。

藤原頼通もまた、この末法思想を信じており、末法の時代に入るとされていた永承7年(1052年)に宇治殿を寺院とします。

これが、平等院の始まりです。

秋の平等院

秋の平等院

鳳凰堂の通称で親しまれる阿弥陀堂は、天喜元年(1053年)に落成し、治暦2年(1066年)には、頼通の子の師実(もろざね)や娘の寛子(かんし)ら、藤原氏によって伽藍が整えられていきました。

平等院に造営された浄土庭園は、藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)にも存在していましたが、平等院において完成の域に達します。

今も、浄土庭園に配された阿字池には、鳳凰堂が映り込み、見事な景観を見せてくれます。

夜の平等院

夜の平等院

源融が営んだ別業には、鴨川のほとりの河原院(かわらのいん)などがありますが、現存していません。

また、嵐山の常寂光寺二尊院がある辺りは、藤原定家の小倉山荘がありましたが、こちらも石碑が残るだけとなっています。

宇治別業が、平等院となって今も残っているのは、やはり、お寺のような宗教施設にしたことが大きな理由だと思います。

貴族がただ贅沢のために営んだ別荘は、彼らが没落すれば、建物が放置され、やがて朽ち果てていくだけです。

でも、お寺となれば、それが人々を救うための施設に変わり、多くの人から大事にされ、災害や戦乱によって失われても再建されます。

約千年もの間、平等院が存在し続けているのは、社会にとって必要だったからなのでしょう。

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